印旛沼の水害から考える 水とともに生き、土地を切り開いてきた北総の歴史
印旛沼の水害から考える
水とともに生き、土地を切り開いてきた北総の歴史
この記事のポイント
- 印旛沼は、もともと海の一部でした
- 江戸時代に利根川の流れが変えられ、印旛沼は水害に悩まされるようになりました
- 北総台地の「数字の地名」には、開拓者たちの願いが込められています
- 災害の後こそ、お口のケアが命を守ります
令和8年(2026年)9月21日夜から22日にかけて、台風25号の豪雨が印旛沼周辺を襲いました。
千葉県の発表によると、次の3か所で堤防が決壊しました。[1]
- 北印旛沼の堤防(成田市船形干拓付近):約100メートル
- 北印旛沼に流れ込む農業排水路「角川」(成田市下方):一部
- 北印旛沼と利根川を結ぶ「長門川」(栄町酒直):一部
佐倉市では21日夜に高崎川があふれ、JR佐倉駅周辺の住宅地などが水につかりました。[2] 住宅の浸水は880棟を超えたと報じられています。[3]
県内では、この台風で亡くなられた方もいらっしゃいます。心よりご冥福をお祈りいたします。被災された皆様、復旧作業にあたっておられる皆様に、お見舞いを申し上げます。
なぜ印旛沼の周りでは、これほど水の被害が起きやすいのでしょうか。その答えは、この土地の長い歴史の中にあります。
1. 印旛沼は、もともと「海」だった
印旛沼や手賀沼は、はじめから淡水の沼だったわけではありません。
縄文時代から弥生時代にかけて、印旛沼は海の一部でした。鹿島や銚子の方角から内陸へ深く入り込んだ「古鬼怒湾(こきぬわん)」という内海です。当時は「印旛浦」と呼ばれ、水は海水でした。[4]
その証拠が貝塚です。周辺の貝塚からは、アサリ、ハマグリ、マガキなど、海や汽水域にすむ貝が数多く見つかっています。[4]
※汽水(きすい):海水と淡水が混じり合った水のことです。
およそ1,000年前には、霞ヶ浦や手賀沼とひと続きの「香取の海」と呼ばれる大きな水域になっていました。[4][5]
その後、川が運ぶ土砂がたまり、海も少しずつ退いていきました。陸地が広がる中で取り残された入り江が、今の印旛沼や手賀沼です。
つまり印旛沼の周りは、もともと水が集まる低い土地なのです。今回の水害を考えるとき、この成り立ちを知っておくことは大切です。
2. 江戸を守るために変えられた利根川の流れ
江戸時代のはじめ、利根川は今とはまったく違う流れ方をしていました。関東平野の真ん中を南へ流れ、東京湾に注いでいたのです。[4]
徳川幕府は、この流れを銚子の方向、つまり太平洋側へ変える大工事を行いました。文禄3年(1594年)に始まり、承応3年(1654年)に完成するまで、およそ60年かかっています。これを「利根川東遷(とうせん)」といいます。[4][6][7]
工事の主な目的は、次の3つでした。
- 江戸を洪水から守る
- 新しい田んぼを開いて、米づくりを安定させる
- 船で物資を運ぶ水の道を整える
この工事のおかげで、江戸と関東は大きく発展しました。
しかし、その代償もありました。利根川の上流から運ばれる大量の土砂が下流にたまり、利根川があふれるたびに、その水が印旛沼へ逆流するようになったのです。[4]
「東京を守るために、北総が水害を引き受けた」と言われることがあります。より正確に言えば、江戸の発展のための大事業の結果として、印旛沼の周りが大きな負担を背負うことになった、ということです。
3. 三度挑んで、三度失敗した江戸の大工事
江戸時代の人々は、印旛沼の水を東京湾へ流す水路(掘割)をつくろうとしました。現在の八千代市平戸から、千葉市花見川区の検見川までを結ぶ計画です。[4][8]
挑戦は三度行われましたが、いずれも失敗に終わっています。
1回目:享保9年(1724年) 地元・平戸村の名主が幕府に願い出て、工事を始めました。しかし途中で借金を抱え、断念しました。
2回目:天明2年(1782年)〜 老中・田沼意次のもと、幕府自らが大規模な工事を進めました。ところが翌年に浅間山が噴火して工事は中断し、1786年の大洪水で工事の跡が壊されてしまいます。その後、将軍の死と田沼の失脚によって、計画は立ち消えになりました。
3回目:天保14年(1843年) 老中・水野忠邦が、5つの藩に工事を命じました。やわらかい泥の地盤に苦しみ、水野の失脚もあって、翌年には中止されました。
この時代には、大きな飢饉がたびたび起きていました。[4] 人々にとってこの工事は、家と田畑を守り、飢えずに生きていくための切実な願いだったのです。
4. 戦後の干拓と、「水害の終わり」のはずだった昭和44年
戦後、日本は深刻な食糧不足に陥っていました。そこで昭和21年(1946年)、国の事業として印旛沼と手賀沼の干拓が始まりました。[4][9]
※干拓(かんたく):沼や海の水を抜いて、陸地(農地)にすることです。
やがて事業の目的は、農地づくりから、飲み水・工業用水・農業用水の確保と洪水対策へと広がっていきます。そして昭和44年(1969年)、「印旛沼開発事業」が完成しました。今の北印旛沼と西印旛沼の姿は、このときにできあがったものです。[4]
印旛沼環境基金の資料には、この完成によって、300年あまり続いた印旛沼の水害の歴史に終止符が打たれた、と書かれています。[4]
けれども今回、その堤防が切れました。どれほど整備を重ねても、自然の力を完全に抑えることはできない。今回の災害は、そのことを改めて教えてくれています。
印旛沼は今も、私たちの飲み水や、工場、田畑を支える大切な水源です。流域は11市2町に広がり、千葉県の面積のおよそ1割を占めています。[5]
5. 台地を切り開いた人々と「数字の地名」
低い土地の人々が水と闘っていた一方で、北総台地では別の挑戦が行われていました。
江戸時代、この台地には幕府の馬を放し飼いにする広大な「牧(まき)」がありました。明治時代になると、そこに人々が移り住み、雑木林や原野を切り開いて畑と集落をつくっていきました。
その歴史は、今も地名に残っています。[10]
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順番 |
地名 |
読み方 |
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1 |
初富 |
はつとみ |
|
2 |
二和 |
ふたわ |
|
3 |
三咲 |
みさき |
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4 |
豊四季 |
とよしき |
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5 |
五香 |
ごこう |
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6 |
六実 |
むつみ |
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7 |
七栄 |
ななえ |
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8 |
八街 |
やちまた |
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9 |
九美上 |
くみあげ |
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10 |
十倉 |
とくら |
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11 |
十余一 |
とよいち |
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12 |
十余二 |
とよふた |
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13 |
十余三 |
とよみ |
これらの地名は、入植した順番の数字に縁起の良い文字を組み合わせてつけられたものです。[10]
「富」「豊」「栄」「実」という文字を見ていると、新しい土地で豊かに暮らしたいという当時の人々の思いが伝わってくるようです。
私たちの八街も、そのひとつです。八街は今、落花生の産地として知られています。その陰には、火山灰の土(関東ローム層)が広がる台地を耕し、作物を育て続けてきた先人たちの努力があります。
6. 原野を前にして上がった「万歳」の声
『八街町史』には、開拓者たちが初めて柳沢の牧を目にした場面が描かれています。[10]
目指してきた土地が目の前に広がっていると分かった瞬間、どこからともなく「万歳」の声が上がりました。その声は林の奥まで響きわたり、中には地面に崩れ落ちて泣き出す人もいたといいます。
けれども、そこにあったのは実り豊かな畑ではありませんでした。雑木や柴栗が生い茂る原野です。木を切り、根を掘り起こし、土を耕すところから始めなければなりませんでした。
それでも人々は、万歳を叫び、涙を流しました。
そこには、新しい土地を得た喜びがあったのでしょう。同時に、故郷を離れた不安、家族を養う責任、そして未来を信じる希望も、入り混じっていたのだと思います。
北総の地名は、ただの地図上の名前ではありません。先人たちの願いと覚悟を、今に伝える言葉なのです。
7. 歯科医師からのお願い:災害の後こそ、お口のケアを
避難生活や浸水後の片付けが続くと、どうしても歯みがきが後回しになりがちです。
- 水が自由に使えない
- 疲れて、歯をみがく余裕がない
- トイレが気になって水分を控え、唾液が減る
こうしたことが重なると、口の中の細菌が増えていきます。過去の大きな災害のあとの避難生活では、口の細菌が肺に入って起こる「誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)」が多く見られました。[11][12] 特にご高齢の方は注意が必要です。
できることから始めましょう
- 歯ブラシがなくても、少量の水でうがいをしたり、ガーゼやハンカチで歯や舌をふいたりするだけで違います
- 入れ歯は、できるだけ外してきれいにしましょう
- 入れ歯をなくしたり壊したりしたときは、遠慮なく歯科医院にご相談ください
- 冠水した水や泥水で、口をすすがないでください
8. この災害を、未来へつなぐために
かつて海だった土地。利根川の流れの変化に翻弄された低地。干拓によって姿を変えた沼。原野を切り開いて生まれた畑と集落。
北総の暮らしは、水と土地の性質を理解し、工夫し、支え合うことで続いてきました。
これからの復旧では、壊れた堤防を直すだけでは足りません。「大雨はまた来る」という前提に立って、地域全体で備えることが大切です。
- 堤防や水門、排水設備を早く直し、さらに強くする
- 沼や川、水路を一体として考える「流域治水」を進める
- 避難の情報が、すべての人に確実に届くようにする
- 高齢の方、障害のある方、小さなお子さん、在宅で療養中の方を切れ目なく支える
- 浸水後の清掃・乾燥・消毒・カビ対策など、健康を守る支援を続ける
- 農家、商店、地域の事業者の立て直しを支える
- 地域の成り立ちと水害の歴史を、学校や家庭で学び直す
この地名の向こうには、水と闘い、原野を耕し、暮らしを次の世代へつないできた人々がいたのです。
被災地の一日も早い復旧を心より願っています。そしてこの災害を、自分たちの地域の歴史を知り、より安全なまちをつくるための出発点にしていきたいと思います。
参考文献・資料
- 千葉県「北印旛沼の堤防決壊について」令和8年9月23日発表・更新。https://www.pref.chiba.lg.jp/kendosei/press/2026/kitainba.html
- 毎日新聞「『腰まで水につかるので…』 佐倉市で道路冠水、住民帰宅できず」2026年9月22日(Yahoo!ニュース掲載)。https://news.yahoo.co.jp/articles/8ff7e4fa74ec81aa2c8fef7a0da316330d5834da
- 時事通信「住宅浸水880棟超 印旛沼など氾濫で」(nippon.com掲載)2026年9月24日。https://www.nippon.com/ja/news/yjj20260924n007051/
- 公益財団法人印旛沼環境基金「第1章 印旛沼の歴史」。https://www.i-kouiki.jp/imbanuma/environment01.html
- 千葉県「湖沼の概要」。https://www.pref.chiba.lg.jp/gesui/jigyou/koshou/documents/kosyougaiyou.pdf
- 国土交通省「日本の川 関東 利根川」。https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0316_tonegawa/0316_tonegawa_01.html
- 国土交通省関東地方整備局 利根川上流河川事務所「利根川の東遷」。https://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00185.html
- 関東農政局「印旛沼開発の歴史 1. 近代までの開発経緯」。https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/inba/keii/01.html
- 我孫子市「手賀沼の沿革」。https://www.city.abiko.chiba.jp/shisei/gaiyou/tega_enkaku/enkaku.html
- 関東農政局「さらに詳しく開拓者の想い」(『八街町史』序説の紹介を含む)。https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/hokuso/rekishi/04_1.html
- 新潟県「災害時の口腔ケア」(厚生労働省「災害時のお口のお手入れについて」、日本歯科医師会の資料へのリンクあり)。https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kenko/disaster-oral-care.html
- 山梨県「災害時における歯科口腔保健について」。https://www.pref.yamanashi.jp/kenko-zsn/dental/oralcare1.html
