「植物にも麻酔が効く」って知っていますか? ――歯医者が使う麻酔薬の、 意外と解明されていない話
「植物にも麻酔が効く」って知っていますか?
――歯医者が使う麻酔薬の、
意外と解明されていない話
診療室で虫歯の治療をするとき、私たちは当たり前のように歯茎に麻酔の注射をします。数分後には痛みを感じなくなり、治療が終わればまた元通り。あまりに日常的な光景なので、「麻酔がなぜ効くのか」を考えたことがある方は少ないかもしれません。
実は、麻酔がどうやって効いているのか、医学はいまだに完全には解明できていません。そして、もっと驚くべきことに——**神経も脳も持たない植物にも、麻酔は効く**のです。
今回は、2026年8月に発表されたばかりの最新研究[1]をもとに、この不思議な現象を歯科医師の視点も交えてご紹介します。
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## 150年前、フランスの生理学者が見た「眠るオジギソウ」
この謎に最初に気づいたのは、19世紀フランスの生理学者クロード・ベルナールでした。1870年代、彼はオジギソウにジエチルエーテル(かつて使われた麻酔薬)をかける実験を行いました。オジギソウは触れると葉を閉じる性質で知られていますが、麻酔をかけると、触れても葉が閉じなくなったのです。
ベルナールはこの現象に強い印象を受け、「生きているということは麻酔にかかる性質を持つことであり、麻酔にかからないものは死んでいる」とまで言い切ったと伝えられています[1]。神経や脳の存在を前提にせず、麻酔という現象そのものにもっと普遍的な意味を見出そうとした、鋭い直感だったといえるでしょう。
## 現代版オジギソウ実験――ハエトリグサで「麻酔→無反応→覚醒」を再現
150年後、北見工業大学の陽川憲准教授は、ドイツ・ボン大学での研究員時代に、食虫植物のハエトリグサを使ってベルナールと同様の実験を行いました。ハエトリグサは葉の内側の感覚毛に虫が2回触れると、0.5秒という速さで葉を閉じて虫を捕らえます。
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ここにジエチルエーテルの麻酔をかけると、感覚毛に触れてもまったく反応しなくなりました。さらに麻酔を完全に飛ばして時間を置くと、再び瞬時に閉じるようになった——つまり、ハエトリグサは麻酔にかかり、そこから「目覚めた」のです[1]。
この現象は電気的にも確認されています。ハエトリグサに麻酔薬を処理すると、細胞の活動電位(動物でいう神経の興奮に近い電気信号)が15分ほどかけて徐々に消え、麻酔を取り除くと再び電位が戻ってくることがわかりました。興味深いのは、麻酔がかかる速さや覚める速さが、ヒトを含む動物とほぼ同じだったという点です[1]。近年、手術で使われることが増えた「覚めが早い」新しい麻酔薬セボフルランを試したところ、ハエトリグサでもやはり素早く覚醒したそうです[1]。
## 歯科医師にとって他人事ではない話――リドカインが植物にも効く
ここで、私たち歯科医師にとって見過ごせない事実が出てきます。歯茎に注射するあの局所麻酔薬・リドカインは、医学の教科書では「神経細胞のナトリウムチャネルを塞ぐことで効く」と説明されています。ところが、神経細胞もナトリウムチャネルも持たないはずの植物にも、リドカインは麻酔として効いてしまうのです[1]。
陽川准教授がこの結果を医学系の学会で発表した際、ある医学部教授が「今まで学生に何を教えてきたのだろう」と頭を抱えたというエピソードも紹介されています[1]。私たちが「神経に効く薬」だと信じてきたリドカインが、神経のない生き物にも作用する——この事実は、麻酔の本当の標的が「神経そのもの」ではなく、もっと基本的な何かである可能性を示しています。
## 植物の中で何が起きているのか――ジャスモン酸という防御シグナル
もう一つの食虫植物であるハエトリグサやオジギソウの研究からは、麻酔が植物の「防御シグナル伝達」を邪魔していることもわかってきています。ハエトリグサが虫を捕まえる仕組みには、植物ホルモンの一種であるジャスモン酸(正確にはその配糖体)が関わっており、感覚毛への刺激がこの物質の分泌を引き起こし、一定量に達すると葉が閉じるという2段階のしくみになっています[2][3]。
麻酔薬で処理すると、この一連の「刺激受容 → 電気信号 → カルシウムイオンの流入 → ジャスモン酸シグナル → 応答(葉を閉じる)」という連鎖のどこかが止まってしまい、外界からの刺激に反応できなくなると考えられています[2][3][4]。動物の神経伝達とは分子の主役が異なるものの、「刺激を電気信号に変え、それを化学シグナルに変換して細胞の応答を引き起こす」という設計そのものは、動物にも植物にも共通しているわけです。
### 動物と植物、麻酔がかかる仕組みの共通点・相違点
| 項目 | 動物(ヒトなど) | 植物(ハエトリグサなど) |
|---|---|---|
| 電気的な興奮 | 神経細胞の活動電位 | 細胞膜の活動電位(陽川准教授らが確認)[1] |
| 麻酔で失われるもの | 神経伝達・意識 | 電気信号・虫を捕らえる反応[1] |
| 覚醒までの時間 | 麻酔薬の種類に依存 | ヒトとほぼ同じ傾向[1] |
| 関与する分子 | イオンチャネル、神経伝達物質 | イオンチャネル、ジャスモン酸などの植物ホルモン[2][3] |
| 神経・脳 | あり | なし |
## 「なぜ効くのか」自体、実は解明されていない
麻酔薬は化学構造がバラバラなのに、なぜどれも「効く」のでしょうか。ここで昔から知られているのが「マイヤー・オーバートン仮説」です。1900年前後に独立して提唱されたこの説は、麻酔薬に共通する性質として脂溶性(脂に溶けやすい性質)の高さに注目し、麻酔薬は細胞膜という脂質でできた構造そのものに作用して膜の流動性を変化させ、それが細胞機能の乱れ、すなわち麻酔につながるのではないか、という考え方です[1]。
さらに陽川准教授らがモデル植物のシロイヌナズナに麻酔薬セボフルランを処理して遺伝子発現を調べたところ、本来同時には起こらないはずの複数のストレス応答遺伝子(低温・乾燥・強光・低酸素など、通常は互いにトレードオフの関係にある反応)が一斉に活性化するという、通常ではありえない状態が観察されました[1]。麻酔下の植物は、いわば「パニック状態」に陥っているのではないかとも解釈されています[1]。
## まとめ――「食べる」を支える麻酔の謎、150年越しの解明へ
クロード・ベルナールが「生きていることの本質」に麻酔という現象を重ねてから150年。神経も脳もない植物にまで麻酔が効くという事実は、私たちが「痛みを取る」ために日々使っている麻酔が、実は生命そのものにとってもっと根源的な、細胞レベルの普遍的な現象に根ざしている可能性を教えてくれます。
歯科治療は、痛みなく安全に「噛める」「食べられる」状態を取り戻すための営みです。その入り口にある局所麻酔ひとつをとっても、まだ解明し尽くされていない生命科学の謎が眠っている——そう考えると、日々何気なく行っている治療も、少し違って見えてくるのではないでしょうか。
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**参考文献**
1. 陽川憲(北見工業大学工学部先進工学科准教授)「なぜ、神経がない植物に麻酔が効くのか?『世紀の謎』麻酔のメカニズム解明に挑む植物研究」竹林篤実, JBpress, 2026年8月29日. https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/96705
2. "Anaesthesia with diethyl ether impairs jasmonate signalling in the carnivorous plant Venus flytrap (Dionaea muscipula)." PMC6948209. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6948209/
3. "Touch, light, wounding: how anaesthetics affect plant sensing abilities." PMC11586303. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11586303/
4. 「麻酔と植物──麻酔分子はなぜ外界への応答を失わせるのか?」日本臨床麻酔学会誌 57巻1号, p.62. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscrp/57/1/57_62/_article/-char/ja
