唾液の「毒消し作用」―よく噛むことが、なぜ体にいいのか
唾液の「毒消し作用」
―よく噛むことが、なぜ体にいいのか
■ はじめに
焼き魚の焦げ目、こんがり焼けたお肉、加工食品……。私たちは日々の食事の中で、知らず知らずのうちに発がん性物質を口にしています。しかし人の体には、こうした有害物質の攻撃力を弱める、心強い防御システムが備わっています。それが「唾液」です。
今回は、唾液が発がん物質の毒性を弱める働きについて、もとになった研究をご紹介しながら、できるだけわかりやすく解説します。
■ きっかけとなった研究
1981年、同志社大学工学部の西岡一教授が学術誌「Mutation Research」に発表した研究が、このテーマの出発点です。
研究では、焦げた食品成分や食品添加物など20種類以上の発がん性物質を用意し、唾液と接触させた場合とさせない場合とで、細菌に突然変異を起こす力(変異原性)がどう変化するかを比較しました。細菌を使ったこの手法は、化学物質の変異原性を調べる際によく使われる標準的な実験手法です。
その結果、唾液に30秒ほど接触させただけで、多くの物質で変異原性が大きく低下することが確認されました。例えば防腐剤の一種であるAF-2では、変異したコロニーの数が唾液処理によって9割前後も減少したと報告されています。この成果は1991年、日本咀嚼学会でも発表されました。
■ なぜ唾液に「消す力」があるのか
この働きを支えているのが、唾液に含まれる次の酵素です。
・ペルオキシダーゼ:過酸化水素などを材料に、細菌の増殖を抑える物質をつくり出すとともに、発がん物質が引き起こす有害な活性酸素を消去します
・カタラーゼ:過酸化水素を分解し、活性酸素の発生を抑えます
・ビタミンC(アスコルビン酸):抗酸化作用でこれらの働きを助けます
発がん物質は体内で活性酸素を発生させ、それが細胞のDNAを傷つけることでがんの引き金になると考えられています。唾液中の酵素は、この活性酸素を消去することで、発がん物質の攻撃力そのものを弱めていると考えられます。
■ よく噛むことの意味
この解毒作用が働くためには、唾液がしっかり分泌されている必要があります。咀嚼によって唾液腺が刺激されると、唾液の分泌量は安静時の5〜10倍にまで増えるとされています。
昔からよく言われる「一口30回、30秒よく噛みましょう」という目安は、単に消化を助けるだけでなく、口の中の食べ物と唾液がしっかり混ざり合う時間としても理にかなっていると言えそうです。
■ 知っておいていただきたいこと
ここで大切な注意点があります。ご紹介した実験は、あくまで細菌を使った試験管内の研究であり、「よく噛めば人のがんを防げる」ことを直接証明したものではありません。1980〜90年代の研究であり、その後、人での効果を明確に裏づける大規模な臨床研究は多くありません。
ですので、「唾液があるから焦げた物や加工食品をたくさん食べても大丈夫」という考え方は誤りです。あくまで体に備わった防御機構の一つとして興味深い知見であり、バランスの良い食事や偏った食習慣を避けることの大切さは変わりません。
■ 患者さんへのアドバイス
・唾液には、発がん物質の働きを弱める酵素(ペルオキシダーゼ・カタラーゼ)が含まれています
・よく噛んで食事をすることで唾液の分泌が増え、この働きが十分に活かされやすくなります
・ただし「唾液があるから何を食べても安心」ということではなく、焦げた食品や加工食品を摂りすぎないことも大切です
・口の乾燥(ドライマウス)があると唾液の抗菌・抗酸化成分が薄まってしまうため、気になる方はお気軽にご相談ください
よく噛んでゆっくり食事をすることは、唾液の分泌を促し、消化を助け、味わいを深めてくれます。今回ご紹介した研究は、「よく噛むこと」の意味をあらためて考える一つのきっかけになれば幸いです。
参考文献
1. Nishioka H, et al. "Mutagenicity of food pyrolysates and their detoxification by saliva." Mutation Research, 85, 1981.
2. 西岡一「唾液による発がん物質の毒性消去作用」日本咀嚼学会雑誌, 1991.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshaku1991/1/1/1_1_25/_pdf
3. 松久保隆、八重垣健、前野正夫 編著『口腔衛生学2012』一世出版.
4. 厚生労働省「健康日本21(第三次)推進のための説明資料」
https://www.mhlw.go.jp/content/10904750/001158816.pdf
5. 十勝歯科医師会「第5話 唾液が『がん』を予防」
https://www.tokachi-doctor.com/health5/
