肺がんが「神経をハイジャック」して食欲を奪う——がん悪液質の最新研究から
# 肺がんが「神経をハイジャック」して食欲を奪う——がん悪液質の最新研究から
「がんが進行すると、なぜ食べているのに体重が減ってしまうのか」「食欲がまったく出ないのはなぜか」。こうした疑問に、2026年7月に発表されたばかりの研究が、新しい答えを示しました。ある種の肺がん細胞が、肺の神経に直接働きかけ、脳に向けて「食欲を落とし、体を消耗させよ」という信号を送っていることがわかったのです。今回はこの研究を、患者さんにもわかりやすく、歯科医師の視点も交えてご紹介します。
## がん悪液質(カヘキシア)とは
がん悪液質は、がんに伴って起こる、体重減少・筋肉量の減少・食欲不振を特徴とする全身の消耗状態です。単なる「食べられていないから痩せる」という話ではなく、体の中で炎症や代謝の変化が起きていることが背景にあります。がん患者さんのおよそ半数に見られ、がんによる死亡のおよそ4分の1に関わるとされる、決して軽視できない問題です。
## 2026年の新発見:肺がん細胞が神経に直接語りかける
米ソーク研究所に着任予定のThales Papagiannakopoulos博士らの研究チームが、2026年7月2日付の科学誌『Science』に発表した論文で、肺がんが神経系を介して食欲や体の消耗をコントロールする仕組みを報告しました。
研究のポイントは次の通りです。
- 肺がんの中でも、LKB1という遺伝子の働きが失われたタイプの腫瘍は、他のタイプに比べて悪液質を強く引き起こしやすいことがわかりました。
- このタイプのがん細胞は、PGE2(プロスタグランジンE2)という脂質のシグナル分子を局所的に多く作り出します。
- PGE2が増えると、肺にある感覚神経が刺激され、その情報が脳に伝わって、食欲低下や消耗といった「病気らしさ」の症状が引き起こされます。
- マウス実験では、肺と脳をつなぐ感覚神経を働かなくすると、悪液質の症状が抑えられました。
- PGE2を作れないように遺伝子操作したマウスでは、悪液質そのものが起こりにくくなりました。アスピリンやイブプロフェンでPGE2の産生を薬理学的に抑えた場合も、同様に症状が和らぎました。
つまりこの研究は、がん細胞が単に増殖するだけでなく、体の神経回路を介して「食べるな」という指令を脳に送っている可能性を示したものです。
## なぜ高脂肪食が症状を悪化させたのか
研究チームは、体重減少を補おうと高脂肪食をマウスに与えたところ、かえって悪液質が悪化するという意外な結果を得ました。
PGE2は、動物性脂肪や一部の植物油に多いオメガ6系脂肪酸を材料として作られます。高脂肪食、特にオメガ6系脂肪酸の多い食事は、腫瘍がPGE2を作るための材料を増やし、神経を介した指令をより強めてしまうと考えられます。一方、脂肪の供給源をオメガ3系脂肪酸(魚油など)に置き換えた食事では、PGE2の産生が抑えられ、悪液質の進行が弱まる傾向が確認されました。
つまり「脂肪をどれだけ摂るか」だけでなく、「どんな種類の脂肪を摂るか」が重要である可能性が見えてきたのです。
## 患者さんが意識しておきたいこと
この研究はまだマウスを中心とした基礎研究の段階であり、ヒトでの治療法として確立したものではありません。その前提のうえで、日々の食事や体調管理のヒントとして参考にできる点をまとめます。
- 体重減少や食欲不振を「がんだから仕方ない」と諦めず、早めに主治医や管理栄養士に相談する
- 脂質を摂る際は、魚由来のオメガ3系脂肪酸を意識し、動物性脂肪や一部の植物油に偏った高脂肪食は控えめにする
- アスピリンやイブプロフェンなどの薬をご自身の判断で悪液質対策として使うことは避け、必ず主治医に相談する
なお、食欲低下や体重減少は、噛む力や飲み込む力(咀嚼・嚥下機能)の低下ともつながりやすく、口腔ケアの観点からも見過ごせない変化です。気になる症状があれば、内科的な相談とあわせて、歯科でも口の中の状態を確認しておくと安心です。
## 今後の展望
研究チームは今後、腫瘍が利用している具体的な神経経路や脳内の回路を特定し、PGE2の産生を抑える、あるいは神経の信号を遮断するといった新しい治療戦略の確立を目指すとしています。将来的には、食欲低下や筋肉量の減少を防ぐ、新しい薬物療法や栄養療法につながることが期待されます。
## 最後に、ひとつの問いかけ
これまで私たちは、がんによる痩せを「食べられないから痩せる」と考え、なんとかカロリーを摂ってもらおうとしてきました。ところが今回の研究は、良かれと思って与えた高脂肪食が、かえって腫瘍からの「消耗せよ」という指令を強めていた可能性を示しています。
もし、痩せの本当の原因が「栄養不足」ではなく「がんが神経を通じて送る一本の信号」だとしたら——私たちが本当に足すべきものは、カロリーなのでしょうか。それとも、その信号を断つ「脂肪の質」や「神経へのアプローチ」なのでしょうか。食べることの意味を、あらためて問い直す研究だと言えそうです。
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## 参考文献
1. Yetiş Gültekin et al., "A dietary switch promotes sensory neuron–dependent cancer-associated cachexia," *Science*, published online July 2, 2026. https://www.science.org/doi/10.1126/science.adz4196
2. Salk Institute for Biological Studies, "Are lung cancer tumors hijacking the nervous system?" (news release, July 2, 2026). https://www.salk.edu/news-release/are-lung-cancer-tumors-hijacking-the-nervous-system/
3. News-Medical.net, "Lung tumors hijack nervous system to drive cancer-related cachexia" (July 2, 2026). https://www.news-medical.net/news/20260702/Lung-tumors-hijack-nervous-system-to-drive-cancer-related-cachexia.aspx
4. Medical Xpress, "Are lung cancer tumors hijacking the nervous system?" (July 2026). https://medicalxpress.com/news/2026-07-lung-cancer-tumors-hijacking-nervous.html
5. AZoLifeSciences, "Salk Study Identifies Brain Signaling Target to Prevent Cancer Cachexia" (July 3, 2026). https://www.azolifesciences.com/news/20260703/Salk-Study-Identifies-Brain-Signaling-Target-to-Prevent-Cancer-Cachexia.aspx
