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歯科医師が「法医学」を学ぶ理由  ——日本法歯科医学会 第20回学術大会に参加して

歯科医師が「法医学」を学ぶ理由
 ——日本法歯科医学会
第20回学術大会に参加して
「先生、なんで歯医者さんが法医学の学会に行くんですか?」
患者さんにそう聞かれたことがある。もっともな疑問だと思う。むし歯の治療や入れ歯の調整をしている町の歯医者が、なぜ「法」の字がつく学会に? 実は私は警察歯科医も兼務しており、法歯科医学は職務上の大切な柱のひとつなのだが、患者さんに説明する機会はほとんどない。今回の学会参加を機に、少し書いてみることにした。
去る5月17日(日)、横浜・鶴見大学記念館にて日本法歯科医学会 第20回学術大会が開催された。テーマは「次の20年を創造する」。大会長は鶴見大学公共医科学研究センター長・教授の佐藤慶太先生。創設から20年という節目の回にふさわしく、過去を振り返りながら未来を見据える充実した一日だった。
 
■ 歯の記録は「究極の身分証明書」になる
「法歯科医学」とは、歯科の専門知識を事件・事故・災害などの場面に役立てる学問だ。中心的な役割が身元確認である。
歯は骨よりも丈夫で、火災や水害にも比較的耐えられる。大規模災害で多くの犠牲者が出たとき、生前の歯科治療記録——レントゲン写真、カルテ、詰め物や被せ物の形——との照合が、身元確認の非常に有力な手がかりになる。
つまり、みなさんが当院で撮っているレントゲンや日々更新しているカルテは、「よりよい治療のための記録」であると同時に、万が一のときの**「究極の身分証明書」**でもある。だからこそ私は、記録を丁寧に残すことにこだわっている。
最近ではAIを活用した身元確認技術も急速に発展しており、デジタル化された歯科記録から候補を高速で絞り込むシステムの研究が進んでいる。能登半島地震のような大規模災害を経験した日本では、その実用化は急務だ。最終判断は専門家が行うが、AIが候補を絞り込むことで「一人でも多くの方を、早くご家族のもとへ」という願いに近づける。
 
■ 「うっかりミス」はなぜ起きるのか——ベテランほど危ない
今回の学会でもうひとつ深く考えさせられたのが、教育講演だった。登壇されたのは重森雅嘉先生(静岡英和学院大学短期大学部 現代コミュニケーション学科 教授)。演題は**『ヒューマンエラー防止の心理学』**。歯科とは一見遠い分野の先生だが、だからこそ鋭かった。
人間の頭の働きには、ふたつのモードがある。慣れない作業をするときの「意識的・慎重な処理」と、慣れた作業が体に染み込んで無意識に流れる「自動処理」だ。自動処理は効率的な反面、「いつもと同じだろう」という思い込みが入り込みやすい。そして怖いのは、経験が豊富になるほど自動処理への依存が深くなるという点だ。
ベテランがミスを犯すとき、その原因の多くは「知らなかった」ではなく、「わかっているつもりだった」から起きる。法歯科の照合作業でも、日常の歯科診療でも、構造はまったく同じだ。
防ぐための実践的なポイントは三つ。
①「いつもと違う」瞬間を意識的に察知する。 患者さんが変わる、器具が変わる、スタッフが変わる——ルーティンが崩れる瞬間こそ注意の切り替えタイミングだ。その瞬間を自動処理のまま流さず、一度立ち止まる習慣が重要になる。
②「後でやろう」は忘却の始まり。 気になったことはその場でメモに残し、処置の手順は声に出して確認する。記憶頼みをやめ、手や声という「外の道具」に記憶を預けることがミスを防ぐ。
③ミスを「個人の不注意」で終わらせない。 ひとつのミスの裏には、それを誘発した環境や手順の問題が潜んでいる。「あの人がうっかりしたから」で終わらせず、仕組みとして改善する。航空業界や医療安全の世界で長年培われてきた考え方だ。
30年近く診療をしていると、「自分は大丈夫」という慢心が忍び込みやすい。この講演は、ちょうどよい戒めになった。「ミスをしない人間などいない、だからこそ仕組みで防ぐ」——このメッセージは、院内スタッフ全員と共有したいと思った。
 
■ 「口が開きにくい」その裏に潜むもの
特別講演に登壇されたのは、濱田良樹先生(鶴見大学歯学部 口腔顎顔面外科学講座 教授)。演題は**『口腔外科専門医を上手に活用する方法』**だった。
一見ありふれた症状の裏に潜む、見逃してはいけない病気——というのが講演の核心だ。「口が開きにくい」という症状は、顎関節症でもよく見られる。しかし同じ訴えが、口の中のがんや、傷口から菌が入って起きる破傷風(土壌や錆びた金属に潜む菌による感染症)のサインであることもある。
「いつもの顎関節症かな」と思い込んだまま対応してしまえば、重大な病気の発見が遅れる。法医学の根っこにある姿勢——「思い込まず、あらゆる可能性を冷静に検討する」——は、日常診療でも患者さんの小さな変化を見逃さないこととまったく地続きだ。
「この人、なんかいつもと違う」という直感は長年の診療で磨かれる。しかしその直感を「気のせいかな」で流さず、論理的に掘り下げる習慣があってはじめて、見落としを防ぐ力になる。ヒューマンエラーの講演で学んだ「自動処理を疑う姿勢」と、根っこはまったく同じだと感じた。
 
■ 歯科医師が「法医学」を学ぶ理由
冒頭の問いに戻ろう。歯科医師が法医学を学ぶのは、いざというときに社会の役に立てる専門性を維持するためだ。しかしそれだけではない。
法歯科医学が求める「記録を正確に残すこと」「思い込みを排して観察すること」「ミスに謙虚であること」は、そのまま毎日の診療の質と安全を支える柱でもある。特別なことではなく、日常の延長にある。
みなさんが通院してくださるたびに積み重なる記録が、いつかどこかで誰かの役に立つかもしれない。そう思うと、定期的な受診の意味が、少し違って見えてくるのではないだろうか。
次の20年も、地域の歯科医師として、そして法歯科医として、真摯に歩んでいきたいと思っている。
 

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