「入れ歯が入ったらまた食べられますよね?」——その誤解を解きたい
「入れ歯が入ったらまた食べられますよね?」——その誤解を解きたい
訪問診療の現場でよく聞かれる言葉があります。
「入れ歯が入れば、また食べられるようになりますよね?」
お気持ちはとてもよくわかります。歯がなくて食べられないなら、歯を入れれば食べられる——一見、当然の論理です。でも歯科医師として、この言葉にはどうしても「それだけでは不十分なことがある」とお伝えしなければなりません。
今日は、他職種の方にも知っていただきたい「咀嚼(そしゃく)の本当の話」を書きます。
咀嚼は「カチカチ」ではなく「もぐもぐ」のことです
「咀嚼=上下の歯を合わせること」——これは正確ではありません。
口の中で食べ物が「飲み込めるもの」になるまでには、次のすべてが必要です。
• あごが上下・左右に動いて食べ物をすりつぶす
• 舌が動いて食べ物を奥歯へ運び、口の中でかき集める
• ほおとくちびるが食べ物がこぼれないように支える
• 唾液と混ざり、まとまりのある「食塊(しょっかい)」になる
この4つが揃って初めて、安全に飲み込める状態になります。
歯はその中の「すりつぶす」部分を担っているにすぎません。入れ歯で歯の形が戻っても、舌の動きが落ちていれば、食べ物は奥歯まで届きません。唾液が少なければ、食べ物はまとまらずバラバラのまま喉に向かいます。それが「むせ」や「誤嚥」につながることがあります。
「食べる力」は口全体の協調運動です
ケアマネジャーさん、看護師さん、介護士さんに特に知っていただきたいのはここです。
咀嚼は、あご・舌・ほお・くちびる・唾液腺がすべてタイミングよく協働する「複雑な協調運動」です。高齢になると歯の本数だけでなく、舌の力、唾液の量、口唇の閉じる力、これらが少しずつ落ちていきます。
「やわらかい食事に変えたら大丈夫ですよね?」もよく聞かれますが、食形態を調整することはとても大切な一方で、食べる力そのものを維持・回復するアプローチも同時に必要です。
入れ歯を入れることで「噛む場所」は戻ります。でも「噛む力の使い方」「舌の動き」「唾液とのまとめ方」は、歯を入れただけでは戻りません。そこには、口腔機能のリハビリテーションという視点が必要になってきます。
訪問の現場で私が大切にしていること
私たちが訪問先でお口を診るとき、「歯があるかどうか」だけでなく、次のことを確認しています。
• 舌は動いているか
• 口唇はしっかり閉じられるか
• 食べるとき口の中に残渣(ざんさ)は多くないか
• 食後に声が変わっていないか(湿った声になると誤嚥のサイン)
これらは、介護や看護の現場でも観察できるポイントです。「最近食べるのが遅くなった」「食後によくむせる」「食事の途中で疲れてやめてしまう」——こうした変化があれば、ぜひ早めに歯科へご相談ください。
まとめ
咀嚼とは、「歯で食べ物をくだくこと」ではなく、**「舌・あご・唾液が協力して、飲み込める形に整えること」**です。
入れ歯はその大切な一部を補うものですが、食べる力のすべてではありません。
「食べられる口」を守るために、多職種で一緒に考えていただけると、患者さんにとってより安全で豊かな食事につながります。現場での気づきを、どうかお気軽に歯科にも共有してください。
わかな歯科 院長 若菜則孝
