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なぜ、健康な人は 口から食べなければならないのか

なぜ、健康な人は
口から食べなければならないのか
 
むかし、こんなことを言っていた先輩がいた。
「食事って面倒くさいよなあ。栄養が全部入った錠剤とか、飲み物だけで一日過ごせたら最高じゃない?」
食べることにあまり興味のない先輩だった。食事の時間も「作業」と割り切っていて、できれば短く済ませたい派。そんな先輩の一言が、長い間ずっと頭の片隅に残っていた。
確かに、栄養だけが目的なら点滴でも錠剤でもよさそうな気がする。でも実際のところ、なぜ健康な人は「口から食べること」にこだわるのだろう。歯科医師として長年、食べる機能と向き合ってきた立場から、少し丁寧に考えてみたい。
 
食べる前から、体はもう動き始めている
 
まず、ちょっと驚くかもしれない話から始めよう。
消化は、食べ物を口に入れてから始まるのではない。食べ物を目で見て、いい香りを感じて、「さあ食べようか」と口を開けた瞬間——体はもうすでに準備を始めているのだ。
唾液がじわっと出てくる。胃がぎゅっと動き始める。これを「脳相反応」という。脳が「食べ物が来るぞ」と先読みして、体全体に準備の指令を出しているのだ。まるで、お客さんが来る前にお店が開店準備を済ませておくようなイメージだ。
さらに最近の研究では、食べ物が口に触れた数分以内に、少量のインスリンがあらかじめ分泌されることがわかってきた。「脳相インスリン分泌(CPIR)」と呼ばれるこの現象が、食後の血糖の急上昇をあらかじめ和らげる役割を担っていると考えられている(Power & Schulkin, 2008 / Pullicin et al., 2021)。
錠剤を飲み込んでも、点滴で栄養を届けても、この「準備信号」は体に届かない。胃腸はいきなり栄養を渡されても、戸惑うばかりなのだ。
 
噛むことは、脳へのごほうびでもある
先輩の言う「錠剤で済ませたい」には、もうひとつ大切な見落としがある。
噛む、という動作そのものが、脳にとって重要な刺激になっているのだ。
噛むことで、記憶や感情、認知機能に関わる脳のさまざまな部位が同時に活性化される。東京都健康長寿医療センター研究所の研究では、咀嚼に伴って大脳皮質の血流が約50%も増加することが確認されている(東京都健康長寿医療センター研究所, 2019)。
50%というのは、なかなかの数字だ。噛むたびに、脳がぱっと明るくなるようなイメージといえばわかりやすいだろうか。
「よく噛んで食べなさい」という言葉は、消化を助けるためだけではなかったのかもしれない。噛むこと自体が、脳を元気に保つための、毎食ごとのトレーニングでもあったのだ。
 
腸は、使わないとさびていく
もうひとつ、意外と知られていないのが腸の話だ。
腸というのは、ただ食べ物を通すだけの管ではない。栄養の吸収はもちろん、体のバリア機能、免疫の調節、代謝のコントロールまで担う、全身に影響する重要な臓器だ。そして腸には、少し困った性質がある。**「使わないと、衰えてしまう」**のだ。
医学の世界では、点滴のみで栄養を補い続けると、腸の粘膜が薄くなり、本来は通さないはずの細菌や有害物質が体内に入り込みやすくなるリスクが指摘されている(伊東, 2019)。
食べ物が腸を通ることで、腸は正しく動き続け、免疫も守られる。「腸活」という言葉が広まったのも、腸が全身の健康に深く関わっているからだ。そしてその腸を健やかに保つために、まず必要なのは「口から食べること」なのだ。
 
「おいしい」という感覚にも、意味がある
もうひとつ、錠剤では得られないものがある。満腹感や満足感だ。
口から食べることで得られる、味の感覚、噛む感触、食事の時間——これらがそろって初めて、脳は「食べた」と感じ、食欲を適切に調節する。固形物は液体よりも口の中にとどまる時間が長く、満足感を得やすい可能性も示されている(Lasschuijt et al., 2018)。
「おいしい」と感じることは、単なる喜びではなく、体の調節機能をしっかり動かすための、大切なスイッチでもあるのだ。
 
点滴やチューブ栄養は、大切な命綱
ひとつ、誤解のないように添えておきたい。
経管栄養や点滴による栄養補給は、口から食べられない方にとって命を支える非常に重要な医療だ。それを否定したいわけでは、まったくない。
ただ、医療の現場では「消化管が使える状態であれば、できるだけ消化管を通して栄養を届ける」というのが基本的な考え方になっている(AAFP, 2021)。それは、口から食べることにしかない生理的なメリットが、確かにあるからだ。
 
あの先輩に、今伝えたいこと
あの「錠剤で済めばいい」と言っていた先輩のことを、今でもときどき思い出す。
食事を「作業」と思っていた先輩に、今なら少し違う言葉を伝えられるかもしれない。
口から食べることは、胃に栄養を送り込む作業ではない。噛む前から消化を準備し、脳を刺激し、腸を動かし、免疫を守り、満腹感を調節する——全身の生理的なシステムを、一斉に動かすスイッチなのだ。
「食事が面倒」という気持ちはよくわかる。でも体は、食べるたびに、ちゃんと全力で応えてくれている。そう思うと、毎日の食事が少し違って見えてこないだろうか。
 
参考文献
1. Power ML, Schulkin J. Anticipatory physiological regulation in feeding biology: cephalic phase responses. Appetite. 2008;50(2-3):194-206.
2. Pullicin AJ, Glendinning JI, Lim J. Cephalic phase insulin release: A review of its mechanistic basis and variability in humans. Physiol Behav. 2021;239:113514.
3. Krishnamoorthy G, et al. Mastication as a tool to prevent cognitive dysfunctions. Jpn Dent Sci Rev. 2018;54(4):169-173.
4. 東京都健康長寿医療センター研究所. 咀嚼にともなう脳血流増加の神経メカニズムを解明. 2019.
5. 伊東文生. 腸管をめぐる最近の話題. 日本静脈経腸栄養学会雑誌. 2019;34(3):173-179.
6. Parenteral Nutrition Support. Am Fam Physician. 2021;104(6):580-588.
7. Lasschuijt MP, et al. Lack of endocrine cephalic phase responses to food cues. Front Endocrinol. 2018;9:332.

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