「何もしない」も、立派な治療です ― 高齢者歯科・訪問歯科、そして保険制度が変わる時代に大切にしていること ―
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「何もしない」も、立派な治療です
― 高齢者歯科・訪問歯科、そして保険制度が変わる時代に大切にしていること ―
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訪問歯科の現場では、ときどきこんな言葉をいただきます。
「結局、何にもしないんですか?」
お気持ちはよくわかります。わざわざ歯科医師が来てくれたのに、抜歯も大がかりな
処置もしない。拍子抜けしてしまうかもしれません。でも、あえて積極的な治療を
「しない」という選択も、きちんと考えたうえでのれっきとした医療行為なのです。
若いころ、上司からこんな言葉を教わりました。
「何もしないのも、立派な治療である」
最近、ある心臓外科医の「手術は人生をよくするための手段であって、目的ではない」
という言葉を聞き、長年の訪問歯科の経験と深く結びついた気がしました。
■ 「口から食べること」の意味を、あらためて考える
動物にとって、食べられなくなることは死に直結します。野生の世界では、口から
栄養をとれなくなった時点で、生命の終わりを意味することが多い。
しかし人間の医療は、それとは異なる選択肢を持っています。点滴による水分・
栄養補給、鼻や胃から直接栄養を届ける経管栄養——こうした方法によって、口から
食べられなくなった後も、栄養を摂り続けることは医学的に可能です。
では、「口から食べること」にはどんな意味があるのでしょうか。
それは、栄養補給という機能をはるかに超えた、「人間らしく生きること」そのものに
関わっています。味わう喜び、食卓を囲む温かさ、好きなものを選ぶ自由、食事という
日常の積み重ね。こうした体験は、点滴や経管栄養では代替できません。
だからこそ、「口から食べること」の維持・回復は、単なる栄養管理の話ではなく、
その人の生活の質(QOL)や尊厳に関わる問題として捉えられています。歯科医師が
「食べること」を守ろうとするのは、この意味においてです。
■ 「食べること」は、もっとも高次の口腔機能の回復である
口の機能には、呼吸・飲み込み・発音・咀嚼(噛むこと)などさまざまあります。
なかでも「食べる」ことは、これらを総合的に使いこなす、もっとも高度な活動です。
食べるためには、噛む力・舌の動き・飲み込みのタイミング・姿勢の安定、さらには
食欲や意欲といった精神面まで関わってきます。
リハビリテーション医学でも、「食べること」の回復は機能訓練の最終目標のひとつに
位置づけられています。つまり「食べられているかどうか」は、その人の口と体と心の
状態を映し出す、もっとも鋭敏な総合バロメーターといえます。
歯を残すことも、虫歯を治すことも、義歯を調整することも——すべてはその先にある
「その人が食べ続けられる」状態を守るためにあると、私は考えています。
■ 義歯(入れ歯)は「食べる力」を診る、もっとも優れたものさし
その観点から特に重視しているのが、義歯(入れ歯)の役割です。
義歯はたんに「歯の代わり」ではありません。義歯をどう使えているかを観察すること
で、その方の口腔機能の実態がよく見えます。うまく噛めているか、外れやすくなって
いないか、食事の内容が変わっていないか——義歯の「適応状態」を確認することは、
その人の食べる力を継続的に評価することに直結します。
さらに義歯は、調整・修理・再製という形で、状態の変化に合わせて対応し続けることが
できます。全身状態が変わった、飲み込みが弱くなった、体重が落ちた——そういった
変化のサインを義歯の状態から読み取り、必要なタイミングで必要なケアにつなぐ。
これはまさに長期管理の視点です。
大がかりなインプラントや外科処置と異なり、義歯は患者さんへの負担が少なく、
繰り返し調整できる。高齢者の「食べること」を長期にわたって支えるうえで、義歯は
もっとも柔軟で実践的な手段のひとつだと考えています。
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■ 保険診療が「出来高制」から「管理型」へ変わってきた理由
かつての歯科の保険診療は「出来高制」が中心でした。虫歯を削れば点数、抜けば点数、
入れ歯を作れば点数——処置をするほど報酬が生まれる仕組みです。歯科医師の側も
「できる治療はすべて行う」という姿勢が当たり前の時代がありました。
ところが近年、保険診療の考え方は大きく変わりつつあります。定期的に患者さんの
状態を把握し、口腔機能や全身状態を継続して「管理」しながら、適切なタイミングで
適切な処置を行う——「管理型」の歯科医療へのシフトです。
これは単なる制度変更ではありません。「何かあったら治す」から「問題が起きないよう
見守り、本当に必要なときだけ介入する」という、医療の思想そのものの転換です。義歯
の長期管理はこの考え方の典型です。作って終わりではなく、その方の食べる力の変化を
定期的に見守り、必要なときに必要なだけ調整する——これが管理型歯科医療の実践です。
■ 医療全体で語られる「しないことの大切さ」
外科の世界には、こんな格言があります²。
「新しい手術を発明することよりも、手術を避ける方法を見つけるほうが大切なことが
ある」「技術的にできることが、必ずしも患者さんの利益になるわけではない」
最近の外科系論文でも「手術の目的は壊れた臓器を直すことではなく、長く生きること・
つらさを減らすこと・機能を保つことという患者さんの目標を達成するための手段だ」と
明言されています³。超高齢の方へのインプラントでも慎重な適応判断が求められており⁴、
緩和ケアの専門家も「“何もしない”は選択肢ではない。症状緩和や心のケアなど、“すること”
はたくさんある」と述べています⁵。侵襲的な処置を選ばないことで実現できるケアが、
確かに存在します。
■ まとめ ― 「口から食べること」を支えることが、歯科医師の仕事 ―
私が大切にしているのは「歯をたくさん残すこと」ではなく、その方のゴールを
一緒に考えることです。
● 最後まで口からおいしく食べられること
● 誤嚥性肺炎でつらい思いをしないこと
● 口の痛みなく、穏やかに過ごせること
点滴や経管栄養で栄養を届けることは医学的には可能です。しかし「口から食べる」
ことの価値は、それとは別の次元にある——その認識のもとで、最小限の介入で
最大の恩恵を目指すミニマルインターベンションの精神¹を大切にしながら、義歯を
通じて食べる力を見守り続けることが、私たちにできる大切な医療のかたちだと
考えています。
「何もしないんですか?」と思うことがあれば、どうぞ遠慮なく聞いてください。
その背景にある考えを、できるだけ丁寧にご説明します。
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【参考文献】
1. Reeves J, et al. Subjective impact of minimally invasive dentistry in the
oral health of older patients. Gerodontology. 2014;33(1):76–82.
(高齢者への低侵襲歯科治療〔ミニマルインターベンション〕の有用性に関する研究)
2. Campbell WB. Surgical aphorisms. British Journal of Surgery.
2013;100(Suppl 6):47–52.
(「手術をしないことも大事」という外科の格言を集めた論文)
3. Schwarze ML, et al. Focus on the Goals of Surgery. JAMA Surgery.
2023;158(10):994–996.
(手術の目的は「壊れた部分を直すこと」ではなく患者さんの人生のゴールを
かなえることだと説明している論文)
4. Tsukiyama Y, et al. Implant treatment in ultra-aged society.
Journal of Prosthodontic Research. 2018;62(3):243–245.
(超高齢の方へのインプラント治療の注意点をまとめた論文)
5. Grossman D. Palliative care: Doing “nothing” is not an option. 2018.
(「何もしない/全部やる」の二択ではなく、その人に合わせたケアを選ぶことの
大切さを語る記事)
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