大多喜に生きる誇り――正月に帰省して、改めて本多忠勝・忠朝父子の足跡を辿る
# 大多喜に生きる誇り――正月に帰省して、改めて本多忠勝・忠朝父子の足跡を辿る
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## プロローグ:正月の大多喜城下町を歩いて
新年明けましておめでとうございます。
正月休みに大多喜の実家に帰省し、久しぶりに城下町をゆっくりと歩きました。いすみ鉄道の大多喜駅を降りて、本町通りを抜け、大多喜城へと続く坂道を登る――この何気ない散歩コースが、実は400年以上前の都市計画そのままの姿だということを、皆さんはご存じでしょうか。
この町で生まれ育ち、正月という特別な時間に改めて街を歩くと、いつもとは違う発見があります。今年は特に、この町の基礎を築いた本多忠勝・忠朝父子のことを考えながら歩いてみました。
天正18年(1590年)、徳川家康の命を受けて大多喜に入城した忠勝が10万石の城主として整備したこの町[1]。私たちが今歩いている新町、久保町、桜台などの町割りは、忠勝が設計した通りの配置なのです[1]。
歴史は教科書の中だけにあるのではありません。私たちの足元に、今も息づいています。
## 城を守った「命の水」
正月の散歩で立ち寄った大多喜城。天守閣からの眺めは格別です。
本多忠勝が大多喜城を整備した際、最も力を入れたのが井戸の整備でした。城内外に多数の井戸を掘らせ、その中には「大井戸」と呼ばれる大規模なものも含まれていました[1]。
「井戸なんて、水が出ればいいんじゃないの?」と思われるかもしれません。でも、戦国時代は違いました。
籠城戦になったとき、水がなければ城はあっという間に降伏するしかありません。どんなに食料があっても、水がなければ人間は数日しか生きられません。つまり井戸は、**城と領民の命綱**だったのです。
大多喜は夷隅川(いすみ川)に面していますが、城や城下町での水の確保には工夫が必要でした[5]。忠勝はこの課題に真正面から取り組み、井戸の整備によって「命の水」を守り抜いたのです[1]。
日々診療していると、「水の大切さ」は身に染みて分かります。口の中を清潔に保つにも、治療後にうがいをするにも、水は欠かせません。400年前、すでにそのことを理解していた忠勝の先見性には、本当に頭が下がります。
## 「徳川四天王」って、どんな人?
「本多忠勝」と聞いて、「あ、知ってる!」という方も多いかもしれません。大河ドラマにも登場する有名武将ですからね。
徳川四天王の一人で、鹿の角がついた兜をかぶり、「蜻蛉切(とんぼきり)」という長い槍を持った勇猛果敢な武将――そんなイメージです[2][3]。
「生涯57戦、かすり傷一つなし」という伝説が『本多平八郎家譜』という記録に残っています[2]。もちろん、これは後世に少し盛られている可能性もありますが、忠勝が徳川家康から絶大な信頼を得ていた屈指の猛将だったことは確かです[4]。
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ここで、徳川家康の有名な言葉をご紹介しましょう。
**「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」**[8][9]
これは家康が晩年に遺したとされる教えです。「人生は重い荷物を背負って長い道を歩くようなもの。焦らず、不自由なのが当たり前だと思えば、不満も出ない」という意味ですね。
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本多家も徳川家の重臣として、この精神を大切にしていたと考えられます。華々しい戦功の裏には、こうした堅実な生き方があったのです。
## 世界とつながった大多喜城――メキシコ総督を助けた話
ここからは、あまり知られていない、でもとても感動的な歴史のお話です。
慶長14年(1609年)のこと。メキシコ総督のドン・ロドリゴという人を乗せた船が、台風で難破してしまいました。船は千葉県の御宿町の海岸に打ち上げられ、317名の乗組員が命からがら上陸したのです[6][7]。
想像してみてください。言葉も通じない、文化も宗教も違う異国の地に、突然放り出された恐怖を。当時の日本は鎖国に向かう時代。外国人への警戒心が高まっていました。
でも、地元の人々は違いました。自分たちの危険も顧みず、溺れかけた外国人を次々と救助したのです[6]。そして、この時の大多喜城主が、本多忠勝の息子・忠朝でした。まだ25歳の若さです。
忠朝は幕府に報告するとともに、漂着者たちを大多喜城下で手厚く保護しました[6][7]。彼らに衣服や食料を提供し、江戸への護送を準備したのです。
ドン・ロドリゴは後に『日本見聞録』という本を書き、その中で日本人の親切と献身に深い感銘を受けたことを記しています[6]。特に御宿の人々の救助活動については、「命の恩人」として感謝の言葉を綴っているのです。
これは単なる「いい話」ではありません。鎖国前夜の日本における貴重な国際交流の記録であり、房総の人々の温かい心を今に伝える大切な史実なのです[7]。
御宿町には今も「日本・スペイン交流の碑」があります。次回の帰省では、ぜひ足を延ばしてみたいと思っています。
## 父から息子へ――受け継がれた責任感
本多忠朝が、突然現れた317名もの外国人を迅速に保護できたのは、偶然ではありません。
それは父・忠勝から受け継いだ**「領主としての責任感」**があったからです。
忠勝は慶長15年(1610年)に桑名藩(三重県)へ移ることになりますが、大多喜での20年間の治績は高く評価されていました[1]。城下町の整備、井戸の掘削、領民を大切にする姿勢――こうした父の背中を見て育った忠朝は、困っている人を見たとき、迷わず手を差し伸べることができたのでしょう。
また、忠勝の妻・於久の方も、大多喜で夫を支えた女性として知られています[10]。戦国時代、武将の妻の役割は重要でした。夫が戦場にいる間、領内を守り、民の声に耳を傾ける――そんな母の姿も、忠朝の人格形成に影響を与えたはずです。
## 「酒断ちの神様」の人間らしさ
さて、本多忠朝には、もう一つ有名な逸話があります。
大坂夏の陣(1615年)で負傷した忠朝は、医師から厳しく禁酒を命じられていました。でも、ある日どうしても我慢できず、つい酒を飲んでしまったのです[11][12]。
その結果、傷が悪化して、33歳の若さで亡くなってしまいました[11][12]。
普通なら、こんな恥ずかしい失敗は隠したくなりますよね。でも忠朝は違いました。死の間際、こう遺言したと伝えられています。
「自分のように酒で身を滅ぼす者がいないように」[11][12]
この遺言は今も生き続けています。大阪には「酒断ち忠朝地蔵尊」があり、大多喜の良玄寺にも忠朝の墓があって、禁酒を誓う人々が訪れているのです[12]。
「酒をやめなさい」と言うのは簡単でも、実行するのは本当に難しい。だからこそ、400年前の武将の「失敗の教訓」が、今も多くの人を支えているのだと思います。
自分の弱さを隠さず、それを他人を救う力に変える――忠朝の人間らしさが、時代を超えて愛されているのです。
## 正月に考える、歴史と未来
正月の大多喜城下町を歩きながら、私は改めて考えました。
歴史とは、単に「昔あった出来事」ではありません。それは、**誰かの決断と覚悟の積み重ね**なのだと。
本多忠勝が大多喜の城下町を整備し、井戸を掘り、領民の暮らしを守ろうとした。息子の忠朝が、異国から漂着した人々を助け、人道的な対応をした。彼らの決断は、「今この瞬間」だけでなく、「未来」を見据えていました。
そして400年以上が経った今、私たちはその恩恵を受けて、この美しい城下町で暮らしています。新町、久保町、桜台――私たちが何気なく歩くこの通りは、忠勝が設計した都市計画そのものです[1]。
よく「大多喜ってのどかでいいですよね」と言われます。確かにそうです。でも、この「のどかさ」の裏には、400年前の武将たちの汗と決断があったのです。
正月という節目に、こうして歴史を振り返ることは、自分のルーツを確認する作業でもあります。大多喜で生まれ育った者として、この町の歴史を次の世代に伝えていくことは、私たちの責任だと感じています。
## エピローグ:十万石最中と共に
2025年の正月、大多喜城天守閣から城下町を見下ろしました。
いすみ川がゆったりと流れ、町並みが静かに広がっています。変わらない風景のようでいて、実は少しずつ変化している町。それでも、400年前に引かれた道筋は、今もそのまま残っています。
城を降りて、商店街を歩きながら、私は大多喜名物「十万石最中」を買いました。パリッとした皮に、ぎっしり詰まった餡子。子どもの頃から慣れ親しんだこの味を頬張りながら、本町通りをぶらぶらと歩く――これが私の正月の楽しみです。
「十万石」という名前も、本多忠勝が10万石の城主としてこの地を治めたことに由来しています[1]。最中を食べながら歴史を感じる――なんとも贅沢な時間ではありませんか。
実はこの記事も、十万石最中を食べ歩きながら構想を練りました。甘い餡子の味と、冬の澄んだ空気と、静かな城下町の風景。その中で、400年前の武将たちの生き様に思いを馳せる――こんな贅沢な正月の過ごし方は、大多喜で生まれ育った者の特権かもしれませんね。
本多忠勝・忠朝父子が遺したのは、建物や井戸だけではありません。**「未来への責任」**という、目には見えない遺産でした。
今年一年、皆さまにとって良い年となりますように。そして、私たちの町・大多喜の歴史と文化が、これからも大切に受け継がれていくことを願っています。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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## 参考文献
1. 大多喜町史編纂委員会『大多喜町史 通史編』大多喜町、1995年
1. 『本多平八郎家譜』(『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八所収)
1. 平山優『徳川家康と武田氏』吉川弘文館、2017年
1. 小和田哲男『徳川四天王』中央公論新社、2016年
1. 千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史』山川出版社、2000年
1. ドン・ロドリゴ著、長南実訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』雄松堂出版、1989年
1. 御宿町教育委員会『御宿町の歴史と文化財』御宿町、2005年
1. 『駿府記』および徳川家康関連史料
1. 二木謙一『家康の遺言』PHP研究所、2015年
1. 『寛政重修諸家譜』本多家関連項目
1. 『大坂夏の陣図屏風』関連史料
1. 大阪市史編纂所『大坂市史』第3巻、清文堂出版(復刻版)、1978年
