がん免疫薬とステロイド「デキサメタゾン」の併用で効果増強?
# がん免疫薬とステロイド「デキサメタゾン」の併用で効果増強?
## 東京大学・カブラルらのAdvanced Science論文解説
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### はじめに:常識を覆す研究成果
がん治療において、免疫チェックポイント阻害薬(オプジーボやキイトルーダなど)は画期的な治療法として広く使われています。一方で、ステロイド薬は強力な免疫抑制作用を持つため、「免疫療法の効果を弱めてしまうのでは?」という懸念が長年ありました。
ところが、東京大学のカブラル准教授らの研究チームが2025年に発表した論文は、この常識に一石を投じる内容でした。抗がん剤の吐き気止めとして使われるステロイド「デキサメタゾン」が、使い方によっては**むしろ免疫療法の効果を高める可能性がある**というのです。
本記事では、この驚きの研究結果について、患者さんにもわかりやすく、かつ正確に解説していきます。
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## 研究の結論:3つの重要ポイント
まず、この研究から得られた結論を整理しましょう。
**ポイント1:従来の常識**
これまで、「免疫チェックポイント阻害薬+ステロイド=効き目が落ちる」と考えられてきました。
**ポイント2:新しい発見**
マウスの乳がんモデルを使った実験では、吐き気止めとして使う程度の短期間のデキサメタゾン投与が、チェックポイント阻害薬の抗腫瘍効果を**増強しうる**ことが示されました。
**ポイント3:重要な注意点**
ただし、これはあくまで**マウスでの前臨床研究**です。「人間の患者さんにもステロイドをどんどん使えばよい」という話では決してありません。この点が極めて重要です。
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## 研究の詳細:どんな実験だったのか
### 論文の基本情報
- 掲載誌:Advanced Science(ワイリー社の科学誌)
- 研究機関:東京大学大学院工学系研究科
- 研究代表者:Horacio Cabral准教授
### なぜステロイドは「悪者」扱いだったのか
まず、背景を理解しましょう。
**免疫チェックポイント阻害薬の仕組み**
オプジーボ(ニボルマブ)やキイトルーダ(ペムブロリズマブ)などの薬は、がん細胞が免疫細胞にかけている「ブレーキ」を外すことで、免疫細胞(特にT細胞)ががん細胞を攻撃できるようにします。
**ステロイドの作用**
一方、デキサメタゾンなどのステロイドは、強力な免疫抑制作用を持ちます。抗がん剤治療後の吐き気予防や、免疫療法による副作用(免疫関連有害事象)の治療に広く使われています。
**従来の懸念**
「ステロイドで免疫を抑えてしまったら、せっかく免疫のブレーキを外した意味がなくなるのでは?」というのが、これまでの考え方でした。
実際、臨床研究では以下のことがわかっていました。
- 脳転移による浮腫などで治療開始前から高用量のステロイドを使っている患者さんは予後が悪い傾向がある
- 免疫療法の副作用に対して、早期に高用量のステロイドを使うと、治療成績が悪化する可能性がある
こうした理由から、「ステロイド=免疫療法の敵」というイメージが定着していたのです。
### 実験の内容
カブラル教授らは、以下のような実験を行いました。
**実験モデル**
転移性乳がんを発症させたマウスを使用しました。
**投与方法**
- 抗がん剤治療で吐き気止めとして使われる程度の量と期間で、デキサメタゾンを投与
- 抗PD-1抗体(免疫チェックポイント阻害薬)を併用
- デキサメタゾン単独、抗PD-1抗体単独、両者併用などの群に分けて比較
**評価項目**
腫瘍の増殖、転移の程度、マウスの生存期間などを観察しました。
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## 驚きの結果:併用で生存期間が延長
実験の結果、以下のことが明らかになりました。
### 生存期間の有意な延長
デキサメタゾン単独投与や抗PD-1抗体単独投与と比べて、**デキサメタゾン+抗PD-1抗体の併用群では、マウスの生存期間が有意に延びました**。
一部のモデルでは、肺に転移したがんの約半数が完全に消失するという、非常に強い抗腫瘍効果も観察されました。
この結果が示すのは、「ステロイドは単に免疫療法の効果を邪魔するのではなく、使い方によっては相乗効果を生み出しうる」という、新しい可能性です。
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## なぜ免疫抑制薬が免疫療法を助けるのか?
ここからが、この研究の最も興味深い部分です。一見矛盾するこの現象には、「**腫瘍血管と間質の正常化**」という重要なメカニズムが関わっています。
### がんの血管は「異常」である
まず、がん組織の血管が正常な血管とどう違うかを理解しましょう。
**正常な血管**
きれいに整列し、血液がスムーズに流れます。
**がん組織の血管**
- ねじれや蛇行が激しく、構造がいびつ
- 血管の壁に隙間が多く漏れやすいが、同時に周囲から圧迫されて血流が悪い
- 周りの組織(間質)が線維化して硬くなり、内部の圧力が高い
- 酸素が不足している(低酸素状態)
### 異常な血管が引き起こす問題
この異常な血管環境は、治療にとって大きな障害となります。
**免疫細胞が入り込めない**
がん細胞を攻撃するはずのCD8陽性T細胞などの免疫細胞が、腫瘍の中心部まで到達できません。まるで、迷路のような道路で消防車が火事現場にたどり着けないようなものです。
**薬が届かない**
抗がん剤や抗体薬も、腫瘍全体に均一に届きません。
**薬剤耐性の温床**
薬が届きにくい部分のがん細胞は生き残り、より治療に抵抗性を持つようになります。
### 「血管正常化」という治療戦略
そこで近年注目されているのが、「**腫瘍血管を正常に近づける**」という治療戦略です。
**血管正常化とは**
- 無秩序に増えた血管を整理する
- 血流を改善する
- 低酸素状態と高い間質圧を軽減する
このように血管を「正常化」すると、以下のような利点があります。
- 抗がん剤や放射線が腫瘍全体に届きやすくなる
- 免疫細胞が腫瘍の奥深くまで入り込めるようになる
- 結果として、治療効果が高まる
これまで、この血管正常化には主に「抗VEGF抗体」などの血管新生を抑える薬が使われてきました。
### デキサメタゾンが「血管正常化薬」として働く
今回の研究の新しい点は、**吐き気止めとして使われるデキサメタゾンが、血管正常化を起こす**ということです。
研究チームの観察によると、デキサメタゾンを短期間投与することで以下の変化が起きました。
**腫瘍内での変化**
- 圧迫されていた血管の構造が改善
- 線維化や間質圧が軽減(コラーゲンなどの線維成分が減少)
- 血流が改善し、低酸素状態が緩和
**免疫環境の改善**
- CD8陽性T細胞などの免疫細胞が、腫瘍の深部まで均一に浸潤できるようになった
- 免疫チェックポイント阻害薬で活性化された免疫応答が、腫瘍全体に行き渡るようになった
研究チームは、MRI(磁気共鳴画像)や免疫染色などの技術を使って、実際に血流の増加やT細胞の均一な分布を確認しています。
**わかりやすい例え**
デキサメタゾンは免疫を「殺す」のではなく、**免疫細胞が働きやすい「舞台」を整える役割**を果たしたと考えられます。道路を整備して消防車が現場に到着しやすくするようなイメージです。
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## 臨床データとの整合性:矛盾しないのか?
「でも、実際の患者さんではステロイドが悪影響を及ぼすというデータもあるのでは?」という疑問は当然です。この点を整理しましょう。
### 人間での臨床データ
メラノーマ(悪性黒色腫)患者さんを対象にした大規模な研究では、以下のことがわかっています。
**免疫関連有害事象(irAE)とステロイド**
- 免疫療法の副作用が出た患者さんは、概ね予後が良好
- 副作用に対してステロイドを使うこと自体は、全体として必ずしも予後を悪化させない
- しかし、**早期に高用量のステロイドを使ったり、さらに別の免疫抑制薬を追加したりすると、治療効果が下がる可能性がある**
**治療開始前からのステロイド使用**
脳転移による浮腫などで、治療開始前からプレドニゾロン換算で10mg以上のステロイドを使っている患者さんは、無増悪生存期間(PFS)・全生存期間(OS)ともに不良であることが示されています。
### マウス実験との違い:重要な3つのポイント
では、なぜマウスの実験では良い結果が出たのに、人間では悪影響が報告されているのでしょうか。答えは、**ステロイドの使い方が根本的に違う**ということです。
**1. 目的の違い**
- マウス実験:吐き気止めとしての予防的使用
- 臨床で問題になるケース:重篤な副作用や病状悪化への対応
**2. タイミングの違い**
- マウス実験:免疫療法と組み合わせた限られたタイミングでの投与
- 臨床で問題になるケース:治療開始前からの慢性的な使用、あるいは早期の高用量投与
**3. 用量・期間の違い**
- マウス実験:腫瘍環境を整えるのに十分だが、全身の免疫を長期に強く抑制するほどではない量
- 臨床で問題になるケース:高用量を長期間使用
### ステロイドの「二面性」
つまり、こういうことです。
**適切な使い方をすれば**
ステロイドは腫瘍の微小環境を整え、免疫療法の「味方」になりうる
**不適切な使い方をすれば**
全身の免疫を強く抑制し、免疫療法の効果を下げる
料理に例えるなら、塩は適量なら料理を美味しくしますが、入れすぎると台無しになるのと似ています。
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## この研究の臨床的意義と限界
### 期待される新たな治療戦略
この研究が示す可能性は、以下の点で非常に魅力的です。
**1. 低コストで実現可能**
デキサメタゾンは既に広く使われている薬なので、新しい薬を開発するよりもずっと低コストで臨床応用できる可能性があります。
**2. 血管正常化の新しい方法**
これまで血管正常化には主に高価な抗VEGF抗体などが使われてきましたが、身近なステロイドでも同様の効果が得られる可能性が示されました。
**3. 既存治療の最適化**
抗がん剤治療では既に吐き気止めとしてデキサメタゾンが使われています。そのタイミングや量を最適化することで、免疫療法の効果を高められるかもしれません。
### 「今すぐ臨床で真似すべき」とは言えない理由
しかし、重要な注意点があります。
**1. マウスと人間は違う**
マウスの乳がんモデルでの結果が、そのまま人間に当てはまるとは限りません。腫瘍の種類、人種、併用する治療法など、多くの要因が異なります。
**2. 用量の換算が難しい**
マウスでの「短期間・吐き気止め相当量」が、人間ではどのくらいの量に相当するかは、慎重な研究が必要です。
**3. 現在の臨床データとの矛盾**
人間を対象とした大規模研究では、治療開始前からの高用量ステロイド使用や、早期の高用量ステロイド投与は、むしろ予後不良と関連しています。
**4. 患者さんの状態は様々**
- 抗がん剤+免疫療法で既に吐き気止めステロイドを使っているケース
- 免疫療法単剤や維持期で、できるだけステロイドを減らしたいケース
など、臨床現場の状況は多様です。
### 現時点での正しいメッセージ
患者さんに伝えるべき正確なメッセージは、以下の通りです。
> 「**ステロイド=免疫療法の絶対的な敵**」という単純な考え方は、見直される可能性が出てきました。
>
> しかし、人間において最適な「量・タイミング・使用目的」はまだわかっていません。
>
> **患者さんや臨床現場で「ステロイドを増やせば免疫療法がよく効く」と考えるのは早計です。**
>
> 今後の臨床試験の結果を待つ必要があります。
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## 今後の研究の方向性
研究チームも、論文やプレスリリースで以下の点を強調しています。
### 必要な検証
**1. 他のがん種での検証**
乳がん以外のがん(肺がん、大腸がん、メラノーマなど)でも同じ効果が得られるか
**2. 他の治療法との組み合わせ**
他の免疫チェックポイント阻害薬、抗がん剤、放射線療法などとの併用効果
**3. 人間での前向き臨床試験**
最も重要なのは、実際の患者さんを対象とした、計画的な臨床試験です
**4. 最適化の研究**
- いつデキサメタゾンを投与すべきか
- どのくらいの量が適切か
- どのくらいの期間続けるべきか
### 血管正常化研究の広がり
血管正常化と免疫療法の組み合わせについては、他にも様々な研究が進んでいます。
- 抗VEGF薬
- VE-PTP阻害薬(血管内皮タンパク質チロシンホスファターゼの阻害薬)
- STINGアゴニスト(自然免疫を活性化する薬)
- ナノ粒子を使った薬物送達システム
今回のデキサメタゾン研究は、こうした血管正常化戦略の1つの新しいバリエーションとして位置付けられます。
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## まとめ:患者さんに知っていただきたいこと
### 研究のポイント
1. **新しい発見**
東京大学の研究チームが、マウスの乳がんモデルで、吐き気止めとして使う程度のデキサメタゾンが免疫チェックポイント阻害薬の効果を高めうることを示しました。
1. **メカニズムの解明**
その理由は、デキサメタゾンが腫瘍の血管と周囲の組織を「正常化」し、免疫細胞ががん細胞を攻撃しやすい環境を作るためと考えられています。
1. **従来の常識への挑戦**
「ステロイド=免疫療法の敵」という単純な図式に対し、「目的・タイミング・用量を最適化すれば、むしろ味方になりうる」という新しい視点を提供しています。
### 重要な注意点
1. **マウスでの研究である**
これはあくまでマウスを使った前臨床研究です。人間でも同じ結果が得られるかは、これから検証する必要があります。
1. **臨床データとの整合性**
現在のところ、人間を対象とした研究では、治療開始前からの高用量ステロイド使用や、早期の高用量ステロイド投与は予後不良と関連しています。
1. **自己判断は禁物**
「ステロイドを増やせば免疫療法がよく効く」と解釈して、自己判断でステロイドの使用を変更するのは危険です。
### 今後の展望
今後、慎重に計画された臨床試験を通じて、以下の点が明らかになることが期待されます。
- どの患者さんに適しているか
- どのタイミングで投与すべきか
- どのような量と期間が最適か
この研究は、がん免疫療法の効果を高める新しい可能性を示す、非常に興味深いものです。しかし同時に、「まだ基礎研究の段階である」ということを理解することが重要です。
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### おわりに
医学研究は日々進歩しており、これまでの常識が覆されることもあります。今回のデキサメタゾン研究も、その一例と言えるでしょう。
患者さんにとって大切なのは、新しい研究成果に希望を持ちながらも、現時点で確立された治療法を信頼し、主治医とよく相談しながら治療を進めることです。
がん治療は複雑で個別性が高いため、一般化された情報をそのまま自分に当てはめることはできません。新しい治療法や薬の使い方について気になることがあれば、必ず主治医や薬剤師に相談してください。
今後の臨床研究の進展により、より多くの患者さんに効果的な治療が届くことを期待しています。
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**参考文献**
本記事は、Advanced Science誌に掲載された原著論文、東京大学のプレスリリース、およびOncoImmunology誌などの関連論文に基づいて作成しました。正確性を期すため、複数の一次資料を参照しています。
