機能性嚥下障害の新発見: 九州大学の研究を専門家が解説
# 機能性嚥下障害の新発見:
九州大学の研究を解説
## 「検査で異常なし」でも飲み込みにくい:機能性嚥下障害とは
「食べ物が飲み込みにくい」「胸のあたりで詰まる感じがする」という症状で病院を受診し、内視鏡検査や造影検査を受けても「異常ありません」と診断される。それでも症状は続き、食事のたびに不安を感じる――このような状態を「機能性嚥下障害(Functional Dysphagia)」と呼びます。
### 機能性嚥下障害の診断基準
機能性嚥下障害は、次の3つの条件をすべて満たす場合に診断されます:
1. **構造的異常の除外**
内視鏡検査や造影検査で、腫瘍・潰瘍・高度な狭窄などの構造的異常が見つからない
1. **他の原因の除外**
パーキンソン病などの神経筋疾患、薬剤性の影響、アカラシアなどの明確な食道運動障害が否定されている
1. **症状の持続**
嚥下困難感や胸部のつかえ感が3か月以上持続している
国際的な診断基準である「Rome基準」でも同様の定義がなされており、器質的疾患を除外した上で症状が持続する状態として位置づけられています。
### 臨床上の問題点
機能性嚥下障害の患者さんの多くが直面する問題は、「検査は異常なし」と言われながら症状だけが残り、「気のせい」「ストレス」として扱われやすいことです。これは患者さんのQOL(生活の質)を著しく低下させ、適切な医療アクセスを妨げる要因となっています。
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九州大学の研究:「食道拡張障害」という新しい病態概念
2025年12月、九州大学病院の伊原栄吉らの研究グループが、機能性嚥下障害の病態解明につながる重要な発見を報告しました。
### 研究の着眼点:収縮から拡張へ
従来、食道機能の評価は主に「収縮力」に焦点が当てられてきました。食道の蠕動運動の強さ、圧力の伝播パターンなどが中心的な評価項目でした。
九州大学グループの独創性は、**「食道がどれだけ広がるか(拡張能)」**という新しい評価軸を導入した点にあります。
### 研究方法
研究では、高解像度食道内圧測定(High-Resolution Manometry:HRM)を用いて:
- 機能性嚥下障害と診断された患者群
- 健常対照群
を比較し、嚥下時の食道、特に上部食道の拡張動態を定量的に評価しました。
### 研究の主要な発見
この研究から明らかになった3つの重要なポイント:
**①上部食道拡張不全の確認**
機能性嚥下障害患者の一部において、嚥下時の上部食道拡張が健常者と比較して有意に不十分であることが確認されました。
**②横紋筋収縮力低下との関連**
この拡張不全が、上部食道を構成する横紋筋(骨格筋)の収縮力低下と相関していることが示されました。
**③新しいサブタイプの提案**
従来「機能性」とひとくくりにされていた患者群の中に、「食道拡張障害」という測定可能な運動学的異常を持つサブタイプが存在する可能性が提示されました。
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## 病態生理学的解釈:なぜ拡張不全が症状を起こすのか
### 食道の解剖学的特徴
食道は全長約25cmの筋性管腔臓器で、筋層構成に特徴があります:
- **上部1/3**:横紋筋(骨格筋)
- **中部1/3**:横紋筋と平滑筋の移行部
- **下部1/3**:平滑筋
この構成により、上部食道は随意的制御が可能な一方、下部は不随意的な自律神経支配を受けます。
### 拡張障害の病態メカニズム
研究グループが提案する病態メカニズムは以下の通りです:
**上部食道横紋筋の収縮力低下**
↓
**嚥下時の食道上部開大不全**
↓
**ボーラス(食塊)通過時の「通り道」の狭小化**
↓
**わずかな抵抗でも自覚症状として認識される**
ここで重要なのは、単純な運動障害だけでなく、**感覚過敏(sensory hypersensitivity)**との相互作用です。機能性嚥下障害患者では、内臓感覚の閾値が低下していることが知られており、わずかな物理的抵抗を「強い詰まり感」として知覚する可能性があります。
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## エビデンスレベルからみた研究評価
### 研究の学術的価値
**①新規評価指標の導入**
食道拡張という従来注目されていなかった運動学的パラメータに着目し、定量化に成功した点は、方法論的に評価できます。
**②サブタイプ分類への貢献**
機能性消化管障害は近年、heterogeneous(異質性のある)な疾患群として理解されつつあります。この研究は、機能性嚥下障害内のサブタイプ分類を可能にする客観的指標を提供する可能性があります。
**③国際的研究動向との整合性**
近年の国際的レビュー論文(Frazzoni et al. 2024, UEG Journal 2025など)も、機能性嚥下障害を「運動異常と感覚異常のスペクトラム」として捉えており、本研究の方向性はこれと一致しています。
### 研究の限界と今後の課題
一方で、エビデンスレベルの観点から以下の限界があります:
**①研究規模の制約**
- 単施設研究であり、外的妥当性(generalizability)には限界がある
- 症例数が限定的で、機能性嚥下障害全体を代表するサンプルとは言えない
- 多施設共同研究による検証が必要
**②因果関係の未確立**
現時点で示されているのは「相関関係(correlation)」であり、「因果関係(causation)」ではありません。
具体的には:
- 横紋筋筋力低下が一次性(primary)の病態なのか
- 長期の食行動変化や嚥下頻度減少による二次性(secondary)の変化なのか
この区別は、本研究デザインでは判別不可能です。
**③介入研究の欠如**
最も重要な限界は、治療介入による症状改善を実証した研究(intervention study)が存在しないことです。
したがって:
- リハビリテーションの有効性
- 薬物療法の効果
- 予後改善の可能性
これらはすべて「仮説」の段階であり、エビデンスとしては確立していません。
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## 嚥下の協調運動:なぜ単一アプローチでは不十分なのか
### 嚥下5期モデルの理解
嚥下は、以下の5つの段階が精密に協調して成立する複雑な生理機能です:
**①先行期(認知期)**
視覚・嗅覚・記憶に基づく食物認識と嚥下準備。中枢神経系での統合処理。
**②準備期(咀嚼期)**
咀嚼による食塊形成。唾液との混和による適切な粘度・凝集性の獲得。口腔周囲筋の協調運動。
**③口腔期**
舌による食塊の後方輸送。随意運動。約1秒。
**④咽頭期**
最も複雑で重要な段階。以下が瞬時に協調:
- 軟口蓋挙上(鼻咽腔閉鎖)
- 喉頭蓋反転(気道保護)
- 声帯閉鎖
- 喉頭挙上
- 上部食道括約筋(UES)開大
- 咽頭収縮
不随意運動。約0.5〜1秒。
**⑤食道期**
食道蠕動運動による胃への輸送。**本研究が焦点を当てた段階**。約8〜20秒。
### 協調運動の破綻:多段階の問題
臨床的に重要なのは、**嚥下は単一段階の機能ではなく、5段階すべての協調によって成立する**という点です。
**上流の問題が下流に波及**
例えば:
- 準備期の咀嚼不全→食塊が大きすぎる→食道期での通過障害
- 口腔期の舌圧低下→咽頭期のタイミング異常→UES開大不全
- 咽頭期の喉頭挙上不全→UES開大不十分→食道入口部での停滞
つまり、**食道拡張能を改善しても、上流段階に問題があれば症状は残存する**可能性があります。
**感覚フィードバック系の重要性**
嚥下の各段階では、求心性感覚情報が中枢に送られ、次の運動出力が微調整されます:
- 口腔感覚→食塊の位置・性状認識
- 咽頭感覚→嚥下反射のトリガー
- 食道感覚→蠕動運動の調節
機能性嚥下障害では、この**感覚処理系の過敏性**が中心的病態の一つと考えられており、運動機能の改善のみでは対応できない側面があります。
**心理的要因との双方向性**
嚥下困難の経験は:
- 予期不安の形成
- 過度の注意集中(hypervigilance)
- 回避行動
を引き起こし、これらが症状を増強・遷延化させます。また、心理的ストレスは自律神経を介して実際の運動機能にも影響を及ぼします。
**全身的要因の関与**
- 栄養状態:筋力維持には十分な蛋白質・カロリー摂取が必須
- サルコペニア:全身筋力低下と嚥下筋力の相関
- 薬剤:抗コリン作用を持つ薬剤による唾液分泌抑制
- 脱水:唾液分泌減少による食塊形成困難
これらの全身的要因も、嚥下機能に影響します。
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## 機能性嚥下障害への包括的アプローチ
### 多面的評価の必要性
機能性嚥下障害に対しては、以下の多面的評価が必要です:
**①嚥下各段階の詳細評価**
- 嚥下造影検査(Videofluoroscopy:VF)
- 嚥下内視鏡検査(Videoendoscopy:VE)
- 高解像度マノメトリー(HRM)
- 機能的内腔イメージングプローブ(FLIP)
**②感覚機能評価**
- 咽喉頭感覚閾値
- 内臓知覚過敏の評価
**③心理社会的評価**
- 不安・抑うつスケール
- 食行動質問票
- QOL評価
**④全身状態評価**
- 栄養状態(BMI、血清アルブミン、プレアルブミンなど)
- 骨格筋量(サルコペニア評価)
- 服薬内容の確認
### 多職種連携による介入
**リハビリテーション**
- 間接訓練(筋力強化、可動域訓練)
- 直接訓練(食形態調整、代償的手技)
- 姿勢調整
**薬物療法**
- PPI(逆流がある場合)
- 向精神薬(不安・抑うつに対して)
- 漢方薬(半夏厚朴湯など)
**栄養介入**
- 高蛋白食
- サプリメンテーション
- 食形態の最適化
**心理的介入**
- 認知行動療法(CBT)
- バイオフィードバック
- リラクセーション技法
**歯科的介入**
- 口腔機能訓練
- 義歯調整
- 口腔衛生管理
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## 結論:研究の位置づけと今後の展望
### 本研究の学術的意義
九州大学の研究は、以下の点で学術的に重要です:
1. 機能性嚥下障害の一部に、客観的に測定可能な運動学的異常(上部食道拡張不全)が存在することを示した
1. 従来の評価法では見逃されていたサブタイプを同定する新しい評価軸を提供した
1. 将来的な治療ターゲットの候補を提示した
### 臨床応用における留意点
一方で、臨床応用においては以下の点に留意が必要です:
1. **サブタイプの一つであって、全体ではない**
すべての機能性嚥下障害が食道拡張障害ではない
1. **因果関係は未確立**
筋力低下が原因か結果かは不明
1. **治療効果は未実証**
介入研究による症状改善の証明が必要
1. **協調運動としての評価が必須**
食道期だけでなく、嚥下全体の評価が重要
### 科学的に誠実な理解
本研究は「機能性嚥下障害の完全解明」でも「治療法の確立」でもありません。
正確には:
- **「複雑なパズルの重要なピースの一つが見つかった」段階**
- **「今後の研究と治療開発の土台となる発見」**
- **「より大規模な検証研究と介入研究が必要」**
このような冷静で科学的な理解が、患者さんへの適切な情報提供と、過度な期待による失望の防止につながります。
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## 参考文献
1. 九州大学プレスリリース「食事のつかえ、検査で異常なし→食道拡張障害かもしれません!」2025年12月9日
1. 九州大学配布資料PDF「食事のつかえ、検査で異常なし→食道拡張障害かもしれません!」詳細版
1. Frazzoni M, et al. A narrative review of functional dysphagia—what we know so far. Annals of Esophagus. 2024
1. Multidisciplinary Assessment and Management of Functional Dysphagia. Clinical Gastroenterology and Hepatology. 2025
1. Carlson DA, et al. Esophageal and Oropharyngeal Dysphagia: Clinical recommendations. UEG Journal. 2025
1. 健康長寿ネット「摂食・嚥下障害とは」嚥下5期モデルの解説
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**※本記事は学術論文の解説を目的としており、医学的アドバイスを提供するものではありません。嚥下に関するお悩みがある方は、医療機関にご相談ください。**
