「自分に勝つ」ということ—長谷川穂積さんが教えてくれた真の強さ
# 「自分に勝つ」ということ
長谷川穂積さんが教えてくれた真の強さ
日本スポーツ歯科医学会第36回総会学術大会で、元WBC世界3階級制覇王者・長谷川穂積さんの特別講演を拝聴しました。世界の頂点を極めた伝説のボクサーが、36年間のボクシング人生を通じて辿り着いた答え—それは「強さとは、自分自身に勝つこと」という、シンプルでありながら深い真理でした。
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## 最強のチャンピオンが明かした「臆病さ」
「実は、ものすごい臆病だった」
講演冒頭、長谷川さんはこう切り出されました。あの圧倒的なスピードと強さで「絶対防御」と呼ばれた王者が、試合前は恐怖で逃げ出したくなり、足が震えていたというのです。しかし長谷川さんは続けました。
「怖さを消すことではなく、怖いままリングに上がる勇気を持つこと。恐怖があるからこそ、練習を怠らない。恐怖があるからこそ、相手を研究する」
恐怖から逃げたいという自分に打ち克ち、震える足でリングに上がる。それこそが、長谷川さんが積み重ねてきた「自分との戦い」の第一歩でした。
## 大嫌いになったボクシングと向き合う
長谷川さんは小学1年生から、プロボクサーだった父親の指導でボクシングを始めました。その日課は過酷なものでした。
朝6時半に起床して1.5キロのランニング。学校から帰宅後、友達と遊んでから再び1.5キロのランニング。夜は腹筋・背筋・腕立て伏せを各100回。これを小学2年生から6年生まで365日、休みなく続けたそうです。
当然、小学6年生になる頃にはボクシングが大嫌いになりました。中学・高校では一度辞め、高校3年生で留年が決まったときには父親と取っ組み合いの喧嘩をして家出までしました。
3日後に帰宅すると、父親は涙を流しながら言いました。
「お前の好きなことをしろ。お前の好きなように生きろ」
父の涙を見た瞬間、長谷川さんは「もう一回ボクシングをやる」と決意しました。大嫌いになったボクシングと、もう一度向き合う決断。それは、逃げたいという自分に勝つことでした。
## プロテスト不合格
それでも目指した世界の頂点
実は長谷川さん、プロテストに1回落ちています。世界チャンピオンでプロテスト不合格は、おそらく彼だけだそうです。理由は「あまり練習しなかったから」。しかし2回目は頑張って合格しました。
そしてデビュー戦のアンケートで「目標は世界チャンピオンになること」と答えました。アマチュア経験もなく、プロテストに1回落ちた無名の選手が世界チャンピオンを目指すと宣言したのです。周りからは笑われるような目標でしたが、父親の教え—「目標は一番高いところに持っていかないと、そこには大抵なれない」—を信じて、最高の目標を掲げ続けました。
デビュー3戦目で負けた武館選手との再戦で、長谷川さんはボクシングで一番大事なことを学びます。初戦では「全日本社会人チャンピオンに勝てるわけない」と思って戦ったから負けました。しかし再戦では「気持ちでは勝つ」と思って戦ったら勝てたのです。
「相手が自分の気迫に下がり出した。その時に分かったんです。大事なのは気持ちなんだと。それが一番ボクシングでは大事なんだ」
## 母への愛が生んだ究極の覚悟
25歳でバンタム級世界王者となり、30歳まで10回連続防衛を果たしました。しかし11度目の防衛戦で敗北。その7ヶ月後、2階級上のフェザー級でタイトルマッチに挑戦することが決まりましたが、試合1ヶ月前に最愛の母が亡くなりました。
「母が亡くなって1ヶ月後に負けるようであれば、母の死さえもダメなストーリーにしてしまう。僕が勝つからこそ、母の死が美化される。だから負けたら死だと思うくらいのつもりでやった」
悲しみに負けそうな自分に勝つこと。「母の死を美しいストーリーにする」という強い意志が、究極の覚悟を生み出しました。結果、長谷川さんは勝利し、2階級制覇を達成したのです。
## 最大の試練
怪我を乗り越えて見つけた答え
その後、2度の敗北を経験しました。家族からも「もうやめた方がいい」と言われました。そんな時、ファンからの手紙である言葉に出会います。
「どんな道を選ぼうと選ばない道に未練は残るもの。ただ選択した道を信じて正解にしていけばいい」
迷いや不安に勝つこと。選んだ道を信じる—その決断こそが、自分に勝つことでした。
35歳、最後の世界戦が決まりました。しかし試合49日前、スパーリング中に左手親指を脱臼骨折してしまいます。普通なら試合延期を考える怪我です。
「普通はやめたいって思うのが普通なんですが、僕は試合当日まで一度もやめたいと思わなかった。心も折れなかった。絶対この手でも勝ってやるっていう気持ちで試合に臨むことができました」
左手が使えないなら右手をたくさん使う練習をする。バランスを意識して練習する。今できる最大限のことをやる—そう決めて臨んだ試合で、長谷川さんは9ラウンドTKO勝ち。35歳9ヶ月で日本最年長世界王者の記録を樹立し、3階級制覇を達成しました。
そしてこの試合で、長谷川さんは探し求めていた「強さの答え」を見つけたのです。
「強さって、何回勝ったら強いの、何階級取ったら強いの、誰に勝ったら強いのってずっと探してたけど、結果、どんな逆境でも自分自身に負けないことが一番強いんだ」
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## 引退後も続く「自分との戦い」
この答えを見つけたから、長谷川さんは引退を決意しました。しかし「自分との戦い」は引退後も続いています。
「僕は毎日今でも走って練習してるんです。試合もしないんです。でもなんでそれやるかって言ったら、マジで、やりたくないんですよ」
「でもやるのは、やったら自分に勝つんですよ。走るのが嫌なんです。でも毎日走る。走り終わった後、『今日自分に勝てた、良かった』ってスタートする。夕方も練習したくないけど、やった後に『今日も自分に勝てた』っていう。毎日自分に勝てる自分を作るためにやってるんですよ」
「気がついたら、なんかあっても強い、自分に勝てる自分が今自分にいる」
試合もないのに、毎日「やりたくない」と思いながら走り、練習する。それは自分に勝ち続けるためです。毎日自分に勝つことで、どんな困難にも負けない強い自分を作り上げているのです。
## 私たちへのメッセージ
長谷川穂積さんが辿り着いた答え—「強さとは、自分自身に勝つこと」—は、私たちの人生にも深く響きます。
恐怖に負けない。逃げたい気持ちに負けない。「どうせ無理」という気持ちに負けない。悲しみに負けない。迷いに負けない。諦めに負けない。「やりたくない」という気持ちに負けない。
長谷川さんは、世界チャンピオンという頂点を極めた後も、毎日自分に勝ち続けています。それは、強さとは一度手に入れたら終わりではなく、毎日積み重ねていくものだと知っているからです。
「挑戦することに遅すぎることはない」
この言葉を胸に、私も自分の目の前にある課題に対して、逃げずに立ち向かっていこうと強く思いました。世界の頂点を極めた人が辿り着いた答えは、決して特別なものではありませんでした。それは私たち一人ひとりが、毎日実践できることでした。
**自分に勝つ。**
それは、恐怖や弱さを否定することではありません。恐怖や弱さを認めながらも、それに負けずに一歩を踏み出すこと。毎日「やりたくない」と思いながらも、それでもやること。その積み重ねこそが、真の強さを作り上げていくのです。
長谷川穂積さんの講演は、ボクシングの枠を超えて、人生そのものについて深く考えさせられる貴重な時間となりました。
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