呪いとしての才能、 そして「国宝」という名の怪物
いん### **呪いとしての才能、
そして「国宝」という名の怪物**
https://youtu.be/DAiq_4YWXow?si=Q4oVdv8hPEE84BcY
この映画は、魂に傷を残す。鑑賞後、エンドロールが流れる暗闇の中で、私はしばらく席を立つことができなかった。それは単なる感動ではない。物語の凄まじい熱量に当てられ、自らの内面を容赦なく抉り出されたような、痛みを伴う深い問いかけ。李相日監督の『国宝』は、もはや映画という枠を超え、観る者の生き方そのものを揺さぶる「事件」であった。
本作の物語は、一見すると対照的な二人の男の物語だ。ヤクザの息子という出自から歌舞伎の世界に飛び込み、その天賦の才と狂気じみた情熱でのし上がる立花喜久雄。そして、歌舞伎の名門に生まれ、血筋という重圧と喜久雄という異端の才能の前に絶望し、身を崩していく花井俊介。しかし、この映画を深く読み解くと、彼らは単なる「才能と血筋」「革新と伝統」の対立項ではないことに気づかされる。二人はそれぞれ、異なる「呪い」を背負わされた存在なのだ。
喜久雄が背負うのは、「才能という呪い」である。彼の芸は、努力で到達できる領域を遥かに超えている。それは天与のギフトであると同時に、彼を常人から引き離し、孤立させる呪いだ。彼が芸を極めれば極めるほど、周囲は彼を人間としてではなく、畏怖すべき「何か」として見るようになる。愛も、家族も、安らぎも、その才能の炎を燃やし続けるための薪としてくべられていく。
一方、俊介が背負うのは「血脈という呪い」だ。彼は、望むと望まざるとにかかわらず、名門の跡取りという運命を強制される。その血は誉れであると同時に、彼の才能の限界を無慈悲に突きつけ、自由を奪う鎖となる。どちらの呪いが、より重いというわけではない。二人は、それぞれの呪いに抗い、時に身を委ねながら、破滅と栄光がないまぜになった道をひたすらに歩むしかないのだ。
そして、この映画が提示する最も恐ろしい真実は、「人間国宝」という存在の定義そのものである。人間国宝とは、単に芸の頂点を極めた者に与えられる名誉ある称号ではない。それは、人間であることをやめた者に与えられる、美しくも恐ろしい異名なのだ。
喜久雄の師である万菊が体現していたように、その境地に至るためには、自らの人生で経験する愛憎、嫉妬、羨望、悲哀、怒りといった、人間が持つありとあらゆる感情、すなわち「業」のすべてを飲み干し、それでもなお微動だにしない、巨大な虚無にも似た不動の心を獲得する必要がある。生き様すべてを芸の肥やしにし、他者の業も自らの業もすべて受け入れ、その上で完全に超越する。人間性を削ぎ落とし、感情の波に揺らがない、完璧な「芸の器」となった者だけが、血筋というしがらみすら無力化させ、「国の宝」という名の、人間ではない「怪物」へと変貌を遂げるのだ。喜久雄の最後の姿に私たちが感じるのは、栄光の輝きだけではない。あまりにも多くのものを失った者の、底知れぬ孤独と悲しみである。
この壮絶な物語の核心で、鏡のように機能するのが、劇中劇として描かれる『曽根崎心中』だ。この古典の名作が、単なる彩りではなく、登場人物たちの運命そのものを映し出すメタファーとして機能する手腕には、ただただ戦慄する。
若き日の喜久雄が演じるお初は、愛する男と死ぬ覚悟を決めた、生への執着と情念の炎そのものだ。彼の芸は、なぜお初が社会の理不尽に抗い、徳兵衛と共に死を選ぶのか、その魂の叫びを観客に直接突きつける。しかし、物語の終盤、役者生命の危機に瀕した俊介が演じるお初は、全く違う光を放つ。そこにあるのは、徳兵衛の弱さや裏切りをも全て受け入れる、観音様のような「赦し」と「大悲」だ。それは、自らの運命を受け入れ、芸に殉じようとする俊介自身の人生が投影された、鬼気迫る名演である。この二つの「お初」を通して、映画は人間性の多面性と、芸術が人生そのものを映し出す残酷なまでの真実を、私たちに見せつけるのだ。
そして、この映画体験が私個人にもたらした最も大きな「変化」は、観終えた後、どうしようもなく「生の歌舞伎を観たい」という、抑えがたい衝動に駆られたことだった。これまでは、歌舞伎に対してどこか敷居が高く、様式美に彩られた静的な伝統芸能というイメージを抱いていた。だが、『国宝』が描いたのは、そんな生半可な認識を根底から覆す、あまりにも生々しい「熱」だった。
それは、もはや芸術鑑賞というより、魂を賭けた真剣勝負の目撃者にさせられる感覚に近い。演者の放つ気迫、流れる汗、床を踏みしめる音、そのすべてが観客の五感を突き刺し、舞台と客席の境界線を溶かしていく。様式美の奥で燃え盛るのは、生身の人間の魂そのものであり、私たちはその命の燃焼を、固唾を飲んで見守るしかない。もう、記録された映像では満足できない。その場でしか生まれ得ない、一回生の芸術の奇跡を、この目で、肌で感じてみたいのだ。
『国宝』は、私たち一人ひとりの心に深く潜り込み、静かに、しかし鋭く問いかける。「あなたにとっての“国宝”とは何か?」「あなたは何に命を燃やし、何を犠牲にして、あなた自身の人生という作品を創造していくのか?」と。それは、芸術家だけの問いではない。自らの人生とどう向き合い、何に情熱を傾けるかという、すべての人間に通じる普遍的な問いだ。この映画が与えてくれる感動と考察は、観る人それぞれの心の奥底に眠る、大切な何かに光を当ててくれるだろう。もし、まだこの傑作を体験していない方がいらっしゃれば、ぜひ劇場へ足を運び、あなた自身の心で、この物語を受け止めてみてほしい。きっと、かけがえのない「傷」と共に、かけがえのない「気づき」がそこにあるはずだ。