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# 翼突下顎縫線(よくとつかがくほうせん)に関する新しい発見:解剖学的な目印としての意味の変化と、これからの歯科治療への活かし方

こう# 翼突下顎縫線(よくとつかがくほうせん)に関する新しい発見:

解剖学的な目印としての意味の変化と、

これからの歯科治療への活かし方

 基礎解剖学(きそかいぼうがく)にご経験がおありの先生にとって、「翼突下顎縫線」はとても馴染み深い体の構造ですよね。

 実は、この翼突下顎縫線について、私たちの理解をガラッと変えるかもしれない、とても大切な研究が2024年1月に発表されました(Fukino K, et al., Dysphagia, Vol. 39, No. 4, pp. 642-647, 2024)。この論文が教えてくれる新しい発見を基に、翼突下顎縫線がこれまでどのような目印と考えられてきて、それがどう変わるのか、そして、義歯の治療や関連する分野で、これからどのように役立てていけるのか、できるだけ分かりやすく、詳しくお話ししたいと思います。

## 1. 翼突下顎縫線って、これまでどう考えられていたの? その大切さとは?

 これまで、翼突下顎縫線は、頭の骨の一部である蝶形骨(ちょうけいこつ)の翼状突起(よくじょうとっき)にある「翼突鈎(よくとつこう)」という小さな突起から始まって、下の顎(あご)の骨の内側、「臼後三角(きゅうごさんかく)」という奥歯の後ろのエリアに付いている、(けん)のような丈夫な線維の束(たば)だと考えられてきました。解剖学の教科書などでは、口の横にある「頬筋(きょうきん)」という筋肉と、喉の奥にあって飲み込みに関わる「上咽頭収縮筋(じょういんとうしゅうしゅくきん)」という二つの大切な筋肉が、ここで出会ってくっついている境目だとされてきました。

 歯医者さんの仕事の中では、特に次の点で大切な目印とされてきました。

- **下顎孔伝達麻酔(かがくこうでんたつますい)をする時**: 下の顎の神経に麻酔の注射をする際に、針を刺す場所を決めるための大事な目印の一つでした。
- **入れ歯(特に下の総入れ歯)を作る時**: 入れ歯の床(しょう)の後ろの端をどこまでにするか決めたり、頬の筋肉や喉の筋肉の動きと関係して、入れ歯が安定して外れにくくするために大切な場所でした。
- **お口の中の外科手術をする時**: 手術で周りの組織にメスを入れたり、体の構造を見つけたりする時のガイドになっていました。

## 2. 新しい発見:「翼突下顎縫線」の正体は、「BTS complex」っていうの複合体だった!

 Fukino先生たちの研究では、ご献体(けんたい)を使わせていただいて、体の構造を三次元的に詳しく調べたり、組織を顕微鏡で観察したりしました。その結果、私たちが今まで「縫線」と呼んでいたものが、もっと複雑な構造をしていることが分かったのです。

 主な発見は次の通りです。

- **はっきりとした「縫線」は見つからなかった**: 多くのご献体で、頬筋と上咽頭収縮筋の間に、これといった腱の境目(縫線)は見られませんでした。
- **筋肉同士がつながって、混じり合っていた**:
  - 頬筋の上の方の部分は、上咽頭収縮筋と区別がつかないくらいに混じり合っていました。
  - 頬筋の真ん中から下の部分は、縫線ではなく、**「深側頭筋腱(しんそくとうきんけん;deep temporalis tendon; dTT)」**という、こめかみにある側頭筋(そくとうきん)の奥の方の腱に、直接的にくっついたり、他の組織を介してつながったりしていました。上咽頭収縮筋も、コラーゲン線維や頬筋を間に挟んで、この深側頭筋腱と連絡していました。
- **「BTS complex」という新しい考え方**: 研究チームは、この部分は単なる縫線ではなく、**頬筋 (Buccinator muscle; BM)/深側頭筋腱 (deep Temporalis Tendon; dTT)/上咽頭収縮筋 (Superior constrictor of the pharynx; SC) が立体的にくっつき合って一つになった「BTS complex」**として考えるべきだと提案しています。
- **じゃあ、私たちが見ていた「翼突下顎縫線のヒダ」って何?**: 私たちが口の中で「翼突下顎縫線のヒダ」として見ていたものは、このBTS complexが立体的に配置されていることや、周りの組織との関係で、そのように見えていただけかもしれない、ということが示されました。

 この発見は、「翼突下顎縫線」と呼ばれてきたものが、実はいくつかの筋肉や腱が複雑に関わり合って働く、一つの機能的なユニット(まとまり)であることを示しています。これは、私たちの解剖学の理解を大きく変えるものです。

## 3. 解剖学的な目印としての意味は

どう変わるの?

 この新しい発見によって、翼突下顎縫線が持つ解剖学的な目印としての意味合いは、次のように変わってくると考えられます。

- **動かない線維の束から、活発に動く筋肉の複合体へ**:
  今までの「縫線」という言葉からは、あまり動かない、受け身的な線維の束というイメージがありました。しかし、「BTS complex」という考え方は、ものを噛んだり飲み込んだりする時に、積極的に活動して形や張りが変わる、**ダイナミックな筋肉と腱の複合体**であるという認識に変えてくれます。

- **単純な境目から、複雑な移り変わりのゾーンへ**:
  頬筋と上咽頭収縮筋を単純に分ける「境界線」ではなく、両方の筋肉が深側頭筋腱を介してつながり、機能的にも連携しあう**複雑な移行ゾーン(移り変わっていく領域)**として理解する必要が出てきます。

- **人によって違う「翼突下顎縫線」の見た目も、これで説明がつくかも**:
  翼突下顎縫線の形や、どれくらいはっきり見えるかには個人差があることが知られていましたが、これはBTS complexを作っているそれぞれの筋肉の発達具合や、くっつき方、深側頭筋腱の関わり方の違いとして、より具体的に理解できるようになります。「縫線が見当たらない」と言われていたケースも、筋肉同士が直接的に広くくっつき合っている状態なのかもしれない、と考えることができます。

## 4. これからの歯科治療への活かし方:どう変わって、どう展望できる?

「BTS complex」という新しい理解は、歯医者さんのいろいろな分野、特に先生のご専門である義歯の治療や、日常よく行う下顎孔伝達麻酔などに、新しい視点と応用の可能性をもたらしてくれます。

### 4.1. 義歯の治療への応用

- **下の総入れ歯の床の後ろの端の形を、もっと良くするために**:
  - **これまで**: 翼突下顎縫線を目安にして、そのヒダを避けるように、あるいはヒダの緊張具合に合わせて床の端の位置を決めるのが一般的でした。
  - **これからは**: 単に「縫線」を避けるのではなく、BTS complex(特に頬筋と上咽頭収縮筋、そしてそれらをつなぐ深側頭筋腱)が動いた時の様子を、もっと細かく考えて入れ歯の床の後ろの端をデザインする必要が出てきます。
    - **型採りの時(印象採得)**: 患者さんに飲み込む動きや頬を動かす指示をして機能的な型採り(きのういんしょうさいとく)をする際、BTS complexが動いた時の形や動ける範囲を型に写し取ることが、より一層大切になります。この筋肉の複合体の緊張具合や柔らかさを、指で触って確かめる(指診:ししん)ことも役立つでしょう。
    - **入れ歯の床の形**: 入れ歯の床の後ろの端の厚みや、縁(ふち)の丸み、磨き方などを、患者さん一人ひとりのBTS complexの機能状態(例えば、頬筋の張り具合、飲み込む時に上咽頭収縮筋が前に動く感じなど)に合わせて調整することで、入れ歯が唾液でピッタリと吸い付く力(封鎖性:ふうさせい)を高めつつ、筋肉の動きを邪魔しない、より機能的ないい入れ歯が作れるようになるかもしれません。これは、入れ歯がカパカパしにくくなるだけでなく、飲み込みやすさや話しやすさといった機能の改善にもつながる可能性があります。

- **入れ歯の周りの筋肉とのハーモニーを良くする**:
  BTS complexを理解することは、入れ歯を安定させるために欠かせない「筋肉による支え(マッスルグリップ)」という考え方を、より深く理解するのに役立ちます。頬筋を適切に支えることは入れ歯が横にグラグラするのを防ぎ、上咽頭収縮筋とのつながりを考えたデザインは、飲み込む時に入れ歯が動いてしまうのを防ぐのに貢献するかもしれません。
  深側頭筋腱が関わっているということは、こめかみの側頭筋の緊張が、この筋肉の複合体を通じて入れ歯の床の縁の部分に影響を与えるかもしれない、ということも教えてくれます。そうなると、噛み合わせの状態や顎の動きとの関連も考える必要が出てくるかもしれません。

### 4.2. お口の中の外科手術への応用

- **下顎孔伝達麻酔の正確さと安全性を高めるために**:
  - **これまで**: 翼突下顎縫線の外側か内側のくぼみを目安にして針を刺していました。
  - **これからは**: 麻酔を効かせたい場所である「翼突下顎隙(よくとつかがくげき)」は、BTS complexを作っている筋肉たち(特に頬筋、深側頭筋腱)によって囲まれています。
    - 「ヒダ」という表面的な目印だけでなく、その奥にある筋肉の厚みや走り方、深側頭筋腱があることを立体的にイメージすることが、より安全で確実な麻酔につながります。
    - 例えば、針を刺す方向や深さを決める時に、ただ粘膜のヒダを見るだけでなく、その奥にある頬筋の線維の向きや深側頭筋腱の位置を意識することで、筋肉を余計に傷つけたり、血管を傷つけて内出血(血腫:けっしゅ)を作ってしまったりするリスクを減らせるかもしれません。

- **手術の時の解剖学的な理解を深める**:
  親知らずの抜歯や、袋状の病気(嚢胞:のうほう)を取る手術、腫瘍(しゅよう)を取る手術など、翼突下顎縫線の近くで行う外科手術では、BTS complexの解剖を理解しておくことが非常に大切です。
  - 筋肉の線維がどうつながっているか、深側頭筋腱とどう関係しているかを正確に知っておくことで、組織を剥がしたり広げたりするのをより安全に行い、大切な神経や血管を傷つけるリスクをできるだけ小さくすることができます。
  - 特に、深側頭筋腱があることは、今までの「縫線」という認識だけでは見過ごされがちでしたが、手術の際にうっかり傷つけてしまったり、逆にこれを手術の目印として利用したりする場面も出てくるかもしれません。

### 4.3. 食べる・飲み込むことのリハビリテーションへのヒント

 BTS complexが、ものを噛んだり飲み込んだりする時の筋肉の連携プレーの中心として機能するかもしれないという論文の指摘は、食べたり飲み込んだりすることが難しくなる障害(摂食嚥下障害:せっしょくえんげしょうがい)の原因を探ったり、リハビリテーションをしたりするのに新しい視点を与えてくれます。

- 飲み込みの障害の原因を調べる時に、このBTS complexがうまく働いていないこと(例えば、筋肉が痩せてしまったり、硬くなってしまったり、うまく連携して動けなくなってしまったりすること)が関係していないか、もっと詳しく調べる必要が出てくるかもしれません。
- 頬筋や上咽頭収縮筋、さらには側頭筋も含めた筋肉たちがうまく連携して動くように促すような、新しいリハビリテーションの方法を考えるきっかけになる可能性も秘めています。

### 4.4. 顎関節症(がくかんせつしょう)や噛み合わせの治療へ広がる可能性

 深側頭筋腱がBTS complexの一部であることは、とても興味深い点です。側頭筋は、ものを噛むための主要な筋肉の一つで、その働きが悪くなると顎関節症の原因の一つにもなります。

- 側頭筋が過度に緊張したり、うまく働かなかったりすることが、深側頭筋腱を介してBTS complexに影響を与え、その結果として、飲み込む時の違和感や頬のあたりの不快感など、これまであまり関係がないと思われていた症状を引き起こす可能性も考えられます。
- 噛み合わせの状態が変わると側頭筋の活動も変わり、それがBTS complexを通じて口や喉の機能に影響を与えるといった、より広い視野で原因を考えたり治療したりすることが求められるようになるかもしれません。

## 5. まとめとこれからの展望

 Fukino先生たちの研究によって示された「BTS complex」という新しい考え方は、「翼突下顎縫線」という昔から知られていた解剖学的な構造の理解を、大きく塗り替えるものです。この新しい発見は、解剖学的な目印としての意味合いを、動かない線の構造から活発に動く筋肉と腱の複合体へと変え、歯医者さんの様々な臨床場面で、より精密な診断と治療の方法を可能にする大きな可能性を秘めています。

 これまで培ってこられた義歯の治療や基礎解剖学に関する深い知識と経験は、この新しい発見を実際の臨床に応用し、さらに発展させていく上で、きっと大きな力になることでしょう。これからの研究によって、BTS complexがどのように機能し動くのか、人によってどんな違いがあるのか、年齢と共にどう変わるのか、そして様々な病気とどう関わっているのかがさらに明らかになることで、より一人ひとりに合った、機能に基づいた歯科医療が実現することが期待されます。

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## 参考文献

1. Fukino K, Iitsuka M, Kitagawa N, Tubbs RS, Akita K, Iwanaga J. Three-dimensional Analysis of the Muscles Related to the So-Called "Pterygomandibular Raphe": An Anatomical and Histological Study. Dysphagia. 2024;39(4):642-647. doi: 10.1007/s00455-023-10645-3

2. Vutukuri R, Kitagawa N, Fukino K, Tubbs RS, Iwanaga J. The pterygomandibular raphe: a comprehensive review. Anat Cell Biol. 2024;57(1):7-12. doi: 10.5115/acb.23.232

3. Iwanaga J, Fukino K, Kitagawa N, et al. Newly revealed anatomy of the bucinator muscle: An anatomical and histological study. Ann Anat. 2024;255:152297. doi: 10.1016/j.aanat.2024.152297

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